ABCD包囲網 ABCD包囲網の概要

ABCD包囲網

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/31 00:37 UTC 版)

この対日政策が、経済制裁経済封鎖かについては、研究者間でも一定していない[4]

概要

事実上の対日経済制裁に対する、日本側からの別称である[4]。経済制裁および経済封鎖という強制外交手段は、私掠船の時代以前から存在したが、非軍事的強制措置の手段として英蘭戦争あるいはナポレオン戦争時にほぼ確立した。戦時国際法においては、中立国権利義務が存在しており、ある国が交戦対象国に経済的圧力を及ぼす目的で、中立国に協力を要請し、中立国がそれに協力することは、中立義務違反として禁じられている。このため自国の港湾から輸出される貨物が、自国の許可書を持たない場合や、自国の港湾や船舶を経由して、敵性国に輸出される貨物が許可書を持たない場合、あるいは「経済封鎖」指定海域を航行する商船(船籍を問わず)に臨検した際、自国の許可書を所持しない場合、許可書のない貨物については、敵国所有物として拿捕の対象にするといった手法が開発された。また金融資産凍結令は、金本位制の時代にはイギリスあるいはアメリカ合衆国にとって、敵性国家の外国為替決済用資産を没収する強力な外交手段であった。

第一次世界大戦後には、その講和原則であるウッドロウ・ウィルソン十四か条の平和原則に基づき、従来の勢力均衡から、新たに集団安全保障という国際紛争や侵略に対し、国際社会が集団で協調して対処を行うことにより、平和秩序を構築する多国間主義体制へと転換する試みが行われ、国際平和機構である国際連盟が設立された。また国際連盟規約では、その16条において、軍事力の行使に至らない実際の平和構築の強制手段として、違約国に対する集団的な経済制裁が定められた。

個別の国家による経済制裁そのものは、強制外交手段のひとつであり、伝統的な国際法の理解によれば武力使用(交戦)による強制外交と同様に外交上の敵対行為と見なされる可能性がある[注釈 3]が、国際連盟規約の協約に従う限り、国際連盟を中心とする集団安全保障の枠組みでは、その国際法上の合法性が担保されることとなった[4]

中国と日本の動き

日本政府の協力者であった満洲奉天軍閥易幟後、特に間島では中国と日韓との紛争が拡大した(間島問題)。1931年昭和6年)9月18日の満洲事変の発生で、国際連盟は中華民国の提訴と日本の提案により、日中間の紛争に対し介入を開始し、リットン調査団を派遣した。リットン調査団の報告を受けて、1933年(昭和8年)2月24日の国際連盟総会では「中日紛争に関する国際連盟特別総会報告書」が、賛成42票、反対1票(日本)、棄権1票(シャム、現:タイ)、投票不参加1国(チリ)で採択された。この結果を受けて、中華民国は規約16条の経済制裁適用を要求したが、対日経済制裁には必要不可欠なアメリカ合衆国は、国際連盟に対し制裁に反対であることを、リットン調査団が派遣される以前の1931年(昭和6年)11月11日の段階で、駐米英国大使が確認しており、中華民国の要求は、他の代表の沈黙および討議打ち切り宣言により黙殺された。

1932年10月、日本は満洲国の独立は自発的なものではないと結論づけたリットン調査団の報告書を受け、1933年に国際連盟を脱退し、1934年にはワシントン海軍軍縮条約の廃棄を通告し、間島に間島省を設置した。

1937年(昭和12年)7月7日、盧溝橋事件が勃発し、日華間が地域紛争に入ると、中国の提訴を受けた国際連盟総会では、同年9月28日に中国の都市に対する爆撃に対する、23ヶ国諮問委員会の対日非難決議案が全会一致で可決された。1938年(昭和13年)9月30日の理事会では、連盟全体による集団的制裁ではないものの、加盟国の個別の判断による規約第16条適用が可能なことが確認され、国際連盟加盟国による対日経済制裁が開始された。

孤立主義の立場から、アメリカ合衆国議会での批准に失敗し、国際連盟に加盟していなかったアメリカ合衆国は、満州事変当初は、中国の提案による連盟の対日経済制裁に対し非協力的であった。しかしその立場は不戦条約および九カ国条約の原則に立つものであり、満洲国の主権独立を認めず、国際連盟と同調するものであった。アメリカ合衆国の孤立主義的な立場が変わるのは、フランクリン・ルーズベルト大統領になってからである。ルーズベルトは大統領に就任した1933年から1937年(昭和12年)の隔離演説発表まで、表面上は日本に協調的姿勢を見せ、日中国間の紛争には一定の距離を置く外交政策を採っていた[7]。しかし、同年7月に盧溝橋事件が発生すると、対日経済制裁の可能性について考慮をし始め、10月5日に隔離演説を行い、孤立主義を超克し増長しつつある枢軸諸国への対処を訴えた。日本に対する経済的圧力については、アメリカ国内に依然として孤立主義の声もあって慎重であり、後述の通り長期的で段階的なものであった。

仏印進駐による1941年(昭和16年)7月から8月にかけての対日資産凍結と枢軸国全体に対する、石油の全面禁輸措置によって、ABCD包囲網は完成に至る。

イギリス関係国との決裂

  • 1932年(昭和7年) 英領インド綿花の輸出関税及び綿糸布の輸入関税を引上げを発表。日本の紡績業団体は綿花輸入先をアメリカに切り替える旨を声明して対抗を試みた[8]。同年はリットン調査団が満洲を調査中であった。
  • 1933年(昭和8年) ルピーの暴落に次いで、英領インドで不当廉売法(ダンピング禁止法)が実施。また、日印通商条約が破棄され日本は最恵国待遇を失った。日本綿業協会、紡績連合会、日印協会、輸出綿糸布商同業会、人絹連合会等は、綿花の輸入及び綿糸布の輸出に障害が発生した[9]、対抗策としてインド綿花の不買運動が実施された。
  • 1936年(昭和11年) 6月25日、オーストラリアとのあいだの日豪通商交渉が決裂[10]

  1. ^ 不破哲三によると「昭和16年の開戦直前に、政府と軍部が宣伝的に持ち出したもの」[3]
  2. ^ たとえば1941年9月に興亜書林から『日本を包囲するABCDライン』という本が出版されており(世界情勢研究会「 日本を包囲するABCDライン 興亜書林 1941年 近代デジタルライブラリー 1455066)、その他、1941年8月22日付民主電臺(UP)や8月31日付正言報(新嘉坡三十日ルーター電)を転載する日本政府の資料の存在がアジア歴史資料センターで確認できる(JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A03024754300「英米両首脳、ABCD陣強化を決意」民主UP八月二十二日、Ref.A03024758600「ABCD陣営、対日戦を辞せず」正言報八月三十一日
  3. ^ この点については第二次世界大戦後、国際連合憲章第二条四項にいう「力(force)」の射程をめぐり、それを経済的・政治的力の行使まで広く含むものとする社会主義国及び第三世界諸国と、より限定的に武力の行使のみを意味するにすぎないとする欧米諸国との対立が見られた。この対立は今日では、国際連合憲章第二項四項はあくまで武力行使を禁じるに留まるが、経済的・政治的強制力の行使も不干渉原則に抵触する限りにおいて違法(ここでは「違法とされる戦争」)とされる、との了解により決着している。とはいえ、こうした了解が非軍事的力の行使が提起する全ての法的問題を論じるうえでの原則になるわけではない[5][6]
  4. ^ モーゲンソー日記によれば、ルーズベルト大統領は「結局、イタリアと日本が宣戦布告せず交戦する技術を進化させてきたとすれば、なぜ我々は同様の技術を開発できないのか」と語ったとされる[4]
  5. ^ アメリカ議会は1937年中立法が39年の5月1日で2年間の期限が切れ、議会は中立法の扱いをめぐり紛糾の中にあった。1939年中立法が成立したのは大戦が勃発した後の11月4日であった[11]
  6. ^ ただしアメリカ国民から法令に対する憲法訴訟を提起されるリスクが内在していた。
  7. ^ 1933年3月6日の金輸出禁止令(金本位制離脱)および10日の大統領令によりすでに金塊の輸出は許可制となり、4月に入ってアメリカからの金輸出の許可申請が集中したためふたたび金輸出の禁止が声明(20日に行政命令を布告)されていた。横浜正金は為替決済の中心をロンドンに移し、1939年の英仏対独宣戦布告により再びニューヨークに移した。アメリカに対してはつねに輸入超過であり金不足、一方でロンドンに切り替えて以降は為替収支は安定しロンドンに対しては輸出超の金超過の決済状況であった。アメリカの金輸出禁止令以降むしろ日本政府は円ブロック内で金を買い集めて金塊を現送しなければならない状況であり、ニューヨークでの正金は1938年にはほとんど枯渇した。日銀は38年中に3億円相当の金塊を横浜正金に預入して外国為替基金を設立し、横浜正金は38年度中にアメリカへ金現送を完了し、39年10月26日にはすべて売却し米ドル55,920,174ドル54セントおよび英ポンド8,753,602ポンド1シリング2ペンスの預金として運用を始めた(換算合計96,939,490ドル相当)。なお1938年当時の日本政府の国庫歳出は80億8400万円。対敵通商法は敵性資産の没収を規定しており返還はされない性質のものだった[13][14]
  8. ^ ソ連によるポーランド侵攻と、フィンランドとの『冬戦争』に対する措置[22]国際連盟除名)で、アメリカの製品と技術が非人道的行為に利用されないための輸出制限に協力するよう、世界の航空機メーカーや輸出業者に国務省から発出された「通知」。最初のものは1938年6月に出されている。
  9. ^ 原文は "ABCD powers"
  10. ^ ロンドンにおける亡命政府。当時、オランダ本国はドイツの占領下にあった
  11. ^ ジョージ・モーゲンスターン(George Morgenstern)、1906-1988年、米国・シカゴ生まれ。シカゴ大学で歴史学専攻後、25年新聞界で働く。『シカゴトリビューン紙の外交問題と国際問題の論説委員だった。第二次世界大戦中は海兵隊大尉として海兵隊総司令部広報部付ニュース班長だった。海兵少佐で退官。
  1. ^ ABCD包囲陣コトバンク
  2. ^ 新しい歴史教科書をつくる会・編『新しい歴史教科書』扶桑社、P203
  3. ^ しんぶん赤旗「日本の戦争―領土拡張主義の歴史 不破哲三さんに聞く 第3回 三国同盟と世界再分割の野望」、日本共産党、2006年9月20日
  4. ^ a b c d e f 高橋文雄「経済封鎖から見た太平洋戦争開戦の経緯」『戦史研究年報』、防衛省防衛研究所戦史部、2011年3月31日。 NDLJP:10366917
  5. ^ 深津栄一「国際法秩序と経済制裁」、北樹出版、1982年4月1日、61-65頁。NCID BN00437875
  6. ^ 岩月直樹「伝統的復仇概念の法的基礎とその変容 : 国際紛争処理過程における復仇の正当性」、立教法学、2005年2月10日。NAID 110001065318
  7. ^ 歴史群像シリーズ決定版太平洋戦争1「日米激突」への半世紀 学研パブリッシング、2008年,70頁
  8. ^ 大阪時事新報「印関反対で棉花商も蹶起 : 印度の棉花商協会に対して関税引上げ反対を打電す!」。1932年7月14日。
  9. ^ 大阪毎日新聞 1933.
  10. ^ 大阪朝日新聞「破綻の日濠通商 : 業者率先して鷹懲策を支持 : 急速に解決は困難」。1936年6月25日。
  11. ^ 安藤次男「第2次大戦前におけるアメリカ孤立主義と融和政策」『立命館国際研究』、立命館大学、2001年6月。NDLJP:8313212
  12. ^ Econoic Affairs6「社会的共通資本と金融制度」宇沢弘文[1]PDF-P.2
  13. ^ エドワード・ミラー、金子宣子訳『日本経済を殲滅せよ』 、新潮社、2010年7月1日。ISBN 4105284029
  14. ^ 日本銀行百年史「金・為替の統制と国際金融政策
  15. ^ 岩間敏「戦争と石油 (1) ~太平洋戦争編~NAID 40007129667
  16. ^ 全国経済調査機関連合会編『日本経済年誌 昭和9年版』。1935年。国立国会図書館。
  17. ^ 神戸又新日報1935年4月27日「満洲石油問題で米国政府が我に再抗議 : 同国人の権利を保障せよと」神戸大学経済経営研究所『新聞記事文庫』。
  18. ^ 大阪毎日新聞「我綿織物を主眼に米国、関税引上げ平均: 四割二分、実施は来月二十日: 紳士協定交渉は決裂」。1936年5月22日。
  19. ^ a b c 小松直幹 2004.
  20. ^ 南満州鉄道『満鉄四十年史』。2007年11月。吉川弘文館。
  21. ^ 大阪毎日新聞1938年6月29日 1938.
  22. ^ Office of the Historian, Foreign Service Institute. "U.S.-Soviet Alliance, 1941–1945". United States Department of State.
  23. ^ a b c d e f g h 岩間敏「戦争と石油(3) ー『日蘭会商』から石油禁輸へー」独立行政法人 石油天然ガス・金属鉱物資源機構,2010年3月19日,NAID 40017030605,2022年3月19日閲覧
  24. ^ a b ウィンストン・チャーチル、佐藤亮一訳『第二次世界大戦』、河出文庫、2001年7月1日、35頁。
  25. ^ 来栖三郎 『泡沫の三十五年』中央公論新社〈中公文庫〉、2007年、107-108頁。
  26. ^ コーデル・ハル 『ハル回顧録』中央公論新社〈中公文庫〉、2001年、180-183頁。
  27. ^ Joseph C. Grew, Ten Years In Japan, Hesperides, 2006, p.417.
  28. ^ James R. Leutze (1977年). “Bargaining for Supremacy. Anglo-American Naval Collaboration, 1937–1941”. University of North Carolina. pp. 16-17. ISBN 0807813052 
  29. ^ B.H. Liddell Hart(1999-5-7). "A History of the Second World War". p.199. ISBN 1447266927
  30. ^ J. F. C. Fuller(1993-3-22). "The Second World War, 1939-1945: A Strategical and Tactical History". p.128. ISBN 9780306805066
  31. ^ J.F.C.フラー 『制限戦争指導論』 原書房 2009年5月8日 P405 原出はチャーチルの『第二次世界大戦回顧録』
  32. ^ Samuel Eriot Morison, The Two-Ocean War, Naval Institute Press, 2007, p.42.
  33. ^ ジョゼフ・S・ナイ・ジュニア 『国際紛争 理論と歴史』有斐閣、2007年、137頁。
  34. ^ 吉田裕『アジア・太平洋戦争』岩波書店〈岩波新書〉、2007年、13頁。
  35. ^ ブライアン・ファレル「太平洋戦争初期における連合国側の戦略--東南アジア戦線」(防衛研究所、戦争史研究国際フォーラム,2009.9.30)[2]PDF.PP.1-2
  36. ^ 秦郁彦編 『昭和史20の争点』文藝春秋〈文春文庫〉、2006年、89頁。
  37. ^ 井口治夫, 「国際関係史のなかの日米経済関係 : 鮎川義介の日米経済提携構想とフランクリン・ローズヴェルト政権の実力者モーゲンソー財務長官」『アメリカ太平洋研究』 vol.13, 2013.3月, p.39, 東京大学大学院総合文化研究科附属グローバル地域研究機構アメリカ太平洋地域研究センター
  38. ^ オーナ・ハサウェイ/スコット・シャピーロ 著、野中香方子 訳『逆転の大戦争史』文藝春秋、2018年10月10日、254頁。ISBN 9784163909127 
  39. ^ a b オーナ・ハサウェイ/スコット・シャピーロ 著、野中香方子 訳『逆転の大戦争史』文藝春秋、2018年10月10日、17頁。ISBN 9784163909127 






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