ABCD包囲網 オランダとの決裂

ABCD包囲網

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/31 00:37 UTC 版)

オランダとの決裂

日本は、1940年5月、日蘭会商で蘭印と石油200万トンの供給量で合意し[23]、この量は、当初の希望量の2倍であった[23]が、1941年6月17日日蘭会商の芳澤団長は蘭側へ交渉の打ち切りを通告した[23]

ソビエト連邦による封鎖

北樺太石油は1941年、オハ油田での採掘権更新をソビエト連邦から拒絶され、1944年に採掘権を失った。

経過

1930年代半ば、世界はヴェルサイユ体制の存続をめぐって枢軸国(伊独日)・自由主義国(英米仏)・共産主義国(ソ連)の3陣営が次第に対立を深める。日本は1937年から日中戦争を始め、それによりパネー号事件などの日本軍によるアメリカの在中国権益侵害事件が発生するに従い、中国大陸の権益に野心があったアメリカでは対日経済制裁論が台頭してきた。そして第1次近衛内閣1938年に発表した東亜新秩序声明に以前から日本を敵視していたアメリカは態度を硬化させ、1939年日米通商航海条約の廃棄を通告した。1940年1月に条約は失効し、アメリカは屑鉄・航空機用燃料などの輸出に制限を加えた。アメリカの輸出制限措置により日本は航空機用燃料(主に高オクタン価ガソリンとエンジンオイル)や屑鉄など戦争に必要不可欠な物資が入らなくなった。アメリカの資源に頼って戦争を遂行していたため、その供給停止による経済的圧迫がなされ、地下資源に乏しい日本は苦境に陥った。

1940年9月、イギリス・アメリカなどが蔣介石政権に物資を補給するルート(援蔣ルート)を遮断するために、日本は親独のヴィシーフランスとの条約締結のもと、仏領インドシナ北部へ進駐した(北部仏印進駐)。さらに同月ドイツとの間で日独防共協定を引き継ぐ日独伊三国軍事同盟を締結した。この同盟によりアメリカは日本を敵国とみなし、北部仏印進駐に対する制裁と、日中戦争の拡大など日本の拡大政策を牽制するという名目の元、アメリカは屑鉄と鋼鉄の対日輸出を禁止した。その一方で、日本は蘭印(オランダ領東インド)と石油などの資源買い付け交渉を行っており(日蘭会商 [23])、結果的には日本は、蘭印と石油200万トンの供給量で合意した[23]。この量は、当初の希望量の2倍であった[23]。この交渉で鍵となったのが航空機用燃料の量で、アメリカの圧力によって蘭印側は、日本が求めた量の1/4に留められた。そのため、当時の日本では航空機用燃料の貯蔵量が底をつきかけていた。4月に、アメリカ・イギリス・オランダの三国は、軍事参謀会議を開き、アジアにおける対日政策について協議した。しかし1941年6月17日、日蘭会商の芳澤団長は蘭側へ交渉の打ち切りを通告した[23]

海軍などでは三井物産などの民間商社を通じ、ブラジルアフガニスタンなどで油田や鉱山の獲得を進めようとしたが、全てアメリカの圧力によって契約を結ぶことができず、1941年には、民間ルートでの開拓を断念した。

7月には、石油などの資源獲得を目的とした南方進出用の基地を設置するために、日本は仏領インドシナ南部にも進駐した(南部仏印進駐)。これに対する制裁という名目のもと、米国は対日資産の凍結と石油輸出の全面禁止、英国は対日資産の凍結と日英通商航海条約等の廃棄、蘭印は対日資産の凍結と日蘭民間石油協定の停止をそれぞれ決定した。日本は石油の約8割をアメリカから輸入していたため、アメリカによる石油輸出全面禁止が国内世論に深刻な影響となった。これにより、日本国内での石油備蓄分も平時で3年弱、戦時で1年半といわれ、早期に開戦しないとこのままではジリ貧になると、陸軍を中心に強硬論が台頭し始める事となった。これらの対日経済制裁の影響について、英国首相のウィンストン・チャーチルは、「日本は絶対に必要な石油供給を一気に断たれることになった」[24]と論評している。

9月、日本は御前会議で戦争の準備をしつつ交渉を続けることを決定し、11月に甲案・乙案と呼ばれる妥協案を示して経済制裁の解除を求め、アメリカと交渉を続けた。しかし、アメリカはイギリスや中国の要請(大西洋憲章)により、中国大陸からの日本軍の撤退や日独伊三国軍事同盟の破棄、蒋介石政権以外の否認などを要求したハル・ノートを提出。これは暫定かつ無拘束と前置きはしてあるものの、日本側が最終提案と考えていた乙案の受諾不可を通知するものであり、交渉の進展が期待できない内容であると考えた日本政府は、開戦も止むなしと判断した[25]。なお日本側が乙案を最終提案として、交渉終了の目安を11月末程度と考えていた事は、暗号解読と交渉の経過により米国側にも知られており、その上で穏健案は破棄され、厳しい内容のハルノートが提示された[26]

包囲網の実態

この包囲網の実態に関して。

同時代人の言葉

  • 時のイギリス首相ウィンストン・チャーチルは、1941年の対日政策について、「英米両政府は緊密な連繋のもとに日本に対して行動していた」としており、7月のアメリカによる経済制裁措置を受けて、「イギリスも同時に行動を取り、二日後にはオランダがこれにならった」と述べている[24]
  • 時の駐日アメリカ大使、ジョセフ・グルーは、ハル・ノートの手交について記した、1941年11月29日の日記において、「もし日本が、南方における主導権を軍隊によって追求しようとするならば、日本は直ぐにABCD諸国[注釈 9]と戦争になり、疑問の余地なく敗北し、三等国になるであろう」[27]と述べている。
  • ロナルド・リンゼイ英語版駐米英国大使は「ルーズベルト大統領は戦争を避けるため、経済封鎖に固執していた」と述べている[28]

研究者による評価

  • イギリスの戦史家ベイジル・リデル=ハートは、「アメリカ政府の資産凍結措置と同時にイギリス政府も行動をとり、ロンドンのオランダ亡命政府も誘導されて追随した」。「このような措置は、1931年にさかのぼる議論においても、日本を戦争に追い込むことは必定だった」と述べており、一連の経済封鎖を背景にしたアメリカの要求について「いかなる国にも、とりわけ日本のような面子を重んじる国にとっては、このような要求を容れることは不可能であった」。「日本が4ヶ月以上も開戦を延期し、石油禁輸解除の交渉を試みていたことは注目に値する」と評している[29]
  • 同じくイギリスのJ・F・C・フラーは「オランダ[注釈 10]はアメリカとイギリスの措置に加わった」。「経済戦争の宣言であり、実質的な闘争の開始であった」と述べている[30]。大西洋会談ではルーズベルトがチャーチルに対し『私は決して宣戦布告をやる訳にはいかないでしょうが、戦争を開始する事はできるでしょう』と述べ、チャーチルは後日『われわれの共同禁輸政策は確実に、日本を平和か戦争かの瀬戸際に追いやりつつあります』という書簡を送ったとしている[31]
  • アメリカの戦史家サミュエル・エリオット・モリソンは、「1941年の後半にイギリスとオランダが協調して、資産凍結と禁輸措置を実行した」[32]としている。
  • 同じくアメリカの政治学者、ジョセフ・S・ナイ・ジュニアは、「日本を抑止しようとするアメリカの努力は破綻をもたらした。平和という選択肢は、戦争に敗れるよりも非道い結果をもたらすと日本の指導者達は考えていた」[33]と述べている。
  • 家永三郎は「日本は、中国侵略を継続するために、これに反対する米英蘭との戦争をすることになった」[34]と述べている。
  • シンガポール国立大学歴史学部教授のブライアン・ファレルによると、日本の攻撃に対し共同で東南アジアを防衛するための戦略は1938年1月の英米士官による海軍戦略についての秘密討議から開始され、1940年秋から1941年春に米英蘭豪およびニュージーランドの士官による参謀会議でさらに実質的な討議が行われ、大筋で統一戦略の大綱の草案に近いものが作成され、各政府に提出されていたとする。しかし41年11月の時点においても日本が当面の明確な脅威であるという点で意見が一致していたものの、地域の統合防衛戦略について合意には至っておらず、その最もよく知られている理由がルーズベルト政権が事前に戦略的な義務を負うことを拒否していたという事情があったためであるとする[35]
  • 秦郁彦によれば、ABCDの国々の間で早い段階から対日戦が計画にあったのかどうかであり、イギリスやオランダの領地が日本に攻撃されたとき必ずアメリカは参戦すると密約があったとするものである。ワシントンとシンガポールでその会議は行われ、その報告書は「ABC-1」、「ADB-1」と呼ばれ、「レインボー5号」になったとされている。米政府は日本軍の南部仏印に進駐するをみて7月26日に日本資産凍結を発表した。これは必ずしも貿易の禁止を意味するものではなかったが、米国内の資産で貿易を決済出来ない事になるのであるから、事実上の禁輸であり英国蘭印もこれにならった。米国が日本への石油の輸出をやめれば蘭印の石油を日本が奪いにくることは明白だったので、蘭印政府は米国に蘭印への軍事援助があるかどうか打診したが、米側からは回答がなかった。しかし日本は石油ゴムスズ屑鉄の軍事物資が止められたので止む無く戦争を始めたといっているが、そうではなく、以前の7月2日の御前会議で「情勢推移に伴う帝國國策要綱」で「南方進出の態勢を強化す」「帝國は本号達成のため対英米戦を辞さず」としていた。戦争への引き金はABCD包囲網ではなかったと秦は述べている。(検証・真珠湾の謎と真実)
  • 須藤眞志は「ABCD包囲網のようなものが、意図的なものとして存在したかどうかは疑わしい」[36]と述べている。また密約合意文書とされる「ABC-1」「ADB-1」について大統領が承認していないので、米政府の意思決定や活動を縛る拘束性がなく、「レインボー5号」の作成に関係があったのか証明が出来ず、ABCDラインの証拠ともならないとしている。
  • ジョージ・モーゲンスターン[注釈 11]は「ABC-1」「ADB-1」両報告書は陸海軍トップの承認後6月に大統領に提出されたとしているが、「これは各国の承認を必要とする」として承認は拒否されたとしている。
  • 井口治夫は、対日経済制裁によって「日本海陸軍をジリ貧論へ追い込んでいった過失責任は明らかに米国側にあった」としている[37]
  • 岩間敏は「陸海軍の省部(陸軍省、海軍省、参謀本部、軍令部)の幕僚たちは、この英米の強硬な反応に茫然自失となった。彼らは、日本が南部仏印に進駐しても米国は、それを許すと思い込んでいたのである。日本の政策決定集団は経済制裁を冷徹に実施してきていた米国のカードが読めていなかったのであった」[23]としている。
  • イェール大学法学部のオーナ・ハサウェイ英語版スコット・シャピーロ英語版によれば[38]不戦条約が締結される1928年以前の旧世界秩序は、戦時中でなければ殺人罪に問われるような大量虐殺でも戦争を行う者には免責が認められる一方で、中立国が交戦国に経済制裁を科すことは違法とされており[39]中立国が交戦国のうちの片方の国との貿易を行うことは中立の義務に違反したとされ、他方の交戦国から攻撃される恐れがあった。しかし不戦条約の締約により(締約国間で)戦争を起こすことは違法となり、条約に違反する国家に対して経済制裁を行うことは侵略国に対する合法的な手段となった[39]と主張している。

  1. ^ 不破哲三によると「昭和16年の開戦直前に、政府と軍部が宣伝的に持ち出したもの」[3]
  2. ^ たとえば1941年9月に興亜書林から『日本を包囲するABCDライン』という本が出版されており(世界情勢研究会「 日本を包囲するABCDライン 興亜書林 1941年 近代デジタルライブラリー 1455066)、その他、1941年8月22日付民主電臺(UP)や8月31日付正言報(新嘉坡三十日ルーター電)を転載する日本政府の資料の存在がアジア歴史資料センターで確認できる(JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A03024754300「英米両首脳、ABCD陣強化を決意」民主UP八月二十二日、Ref.A03024758600「ABCD陣営、対日戦を辞せず」正言報八月三十一日
  3. ^ この点については第二次世界大戦後、国際連合憲章第二条四項にいう「力(force)」の射程をめぐり、それを経済的・政治的力の行使まで広く含むものとする社会主義国及び第三世界諸国と、より限定的に武力の行使のみを意味するにすぎないとする欧米諸国との対立が見られた。この対立は今日では、国際連合憲章第二項四項はあくまで武力行使を禁じるに留まるが、経済的・政治的強制力の行使も不干渉原則に抵触する限りにおいて違法(ここでは「違法とされる戦争」)とされる、との了解により決着している。とはいえ、こうした了解が非軍事的力の行使が提起する全ての法的問題を論じるうえでの原則になるわけではない[5][6]
  4. ^ モーゲンソー日記によれば、ルーズベルト大統領は「結局、イタリアと日本が宣戦布告せず交戦する技術を進化させてきたとすれば、なぜ我々は同様の技術を開発できないのか」と語ったとされる[4]
  5. ^ アメリカ議会は1937年中立法が39年の5月1日で2年間の期限が切れ、議会は中立法の扱いをめぐり紛糾の中にあった。1939年中立法が成立したのは大戦が勃発した後の11月4日であった[11]
  6. ^ ただしアメリカ国民から法令に対する憲法訴訟を提起されるリスクが内在していた。
  7. ^ 1933年3月6日の金輸出禁止令(金本位制離脱)および10日の大統領令によりすでに金塊の輸出は許可制となり、4月に入ってアメリカからの金輸出の許可申請が集中したためふたたび金輸出の禁止が声明(20日に行政命令を布告)されていた。横浜正金は為替決済の中心をロンドンに移し、1939年の英仏対独宣戦布告により再びニューヨークに移した。アメリカに対してはつねに輸入超過であり金不足、一方でロンドンに切り替えて以降は為替収支は安定しロンドンに対しては輸出超の金超過の決済状況であった。アメリカの金輸出禁止令以降むしろ日本政府は円ブロック内で金を買い集めて金塊を現送しなければならない状況であり、ニューヨークでの正金は1938年にはほとんど枯渇した。日銀は38年中に3億円相当の金塊を横浜正金に預入して外国為替基金を設立し、横浜正金は38年度中にアメリカへ金現送を完了し、39年10月26日にはすべて売却し米ドル55,920,174ドル54セントおよび英ポンド8,753,602ポンド1シリング2ペンスの預金として運用を始めた(換算合計96,939,490ドル相当)。なお1938年当時の日本政府の国庫歳出は80億8400万円。対敵通商法は敵性資産の没収を規定しており返還はされない性質のものだった[13][14]
  8. ^ ソ連によるポーランド侵攻と、フィンランドとの『冬戦争』に対する措置[22]国際連盟除名)で、アメリカの製品と技術が非人道的行為に利用されないための輸出制限に協力するよう、世界の航空機メーカーや輸出業者に国務省から発出された「通知」。最初のものは1938年6月に出されている。
  9. ^ 原文は "ABCD powers"
  10. ^ ロンドンにおける亡命政府。当時、オランダ本国はドイツの占領下にあった
  11. ^ ジョージ・モーゲンスターン(George Morgenstern)、1906-1988年、米国・シカゴ生まれ。シカゴ大学で歴史学専攻後、25年新聞界で働く。『シカゴトリビューン紙の外交問題と国際問題の論説委員だった。第二次世界大戦中は海兵隊大尉として海兵隊総司令部広報部付ニュース班長だった。海兵少佐で退官。
  1. ^ ABCD包囲陣コトバンク
  2. ^ 新しい歴史教科書をつくる会・編『新しい歴史教科書』扶桑社、P203
  3. ^ しんぶん赤旗「日本の戦争―領土拡張主義の歴史 不破哲三さんに聞く 第3回 三国同盟と世界再分割の野望」、日本共産党、2006年9月20日
  4. ^ a b c d e f 高橋文雄「経済封鎖から見た太平洋戦争開戦の経緯」『戦史研究年報』、防衛省防衛研究所戦史部、2011年3月31日。 NDLJP:10366917
  5. ^ 深津栄一「国際法秩序と経済制裁」、北樹出版、1982年4月1日、61-65頁。NCID BN00437875
  6. ^ 岩月直樹「伝統的復仇概念の法的基礎とその変容 : 国際紛争処理過程における復仇の正当性」、立教法学、2005年2月10日。NAID 110001065318
  7. ^ 歴史群像シリーズ決定版太平洋戦争1「日米激突」への半世紀 学研パブリッシング、2008年,70頁
  8. ^ 大阪時事新報「印関反対で棉花商も蹶起 : 印度の棉花商協会に対して関税引上げ反対を打電す!」。1932年7月14日。
  9. ^ 大阪毎日新聞 1933.
  10. ^ 大阪朝日新聞「破綻の日濠通商 : 業者率先して鷹懲策を支持 : 急速に解決は困難」。1936年6月25日。
  11. ^ 安藤次男「第2次大戦前におけるアメリカ孤立主義と融和政策」『立命館国際研究』、立命館大学、2001年6月。NDLJP:8313212
  12. ^ Econoic Affairs6「社会的共通資本と金融制度」宇沢弘文[1]PDF-P.2
  13. ^ エドワード・ミラー、金子宣子訳『日本経済を殲滅せよ』 、新潮社、2010年7月1日。ISBN 4105284029
  14. ^ 日本銀行百年史「金・為替の統制と国際金融政策
  15. ^ 岩間敏「戦争と石油 (1) ~太平洋戦争編~NAID 40007129667
  16. ^ 全国経済調査機関連合会編『日本経済年誌 昭和9年版』。1935年。国立国会図書館。
  17. ^ 神戸又新日報1935年4月27日「満洲石油問題で米国政府が我に再抗議 : 同国人の権利を保障せよと」神戸大学経済経営研究所『新聞記事文庫』。
  18. ^ 大阪毎日新聞「我綿織物を主眼に米国、関税引上げ平均: 四割二分、実施は来月二十日: 紳士協定交渉は決裂」。1936年5月22日。
  19. ^ a b c 小松直幹 2004.
  20. ^ 南満州鉄道『満鉄四十年史』。2007年11月。吉川弘文館。
  21. ^ 大阪毎日新聞1938年6月29日 1938.
  22. ^ Office of the Historian, Foreign Service Institute. "U.S.-Soviet Alliance, 1941–1945". United States Department of State.
  23. ^ a b c d e f g h 岩間敏「戦争と石油(3) ー『日蘭会商』から石油禁輸へー」独立行政法人 石油天然ガス・金属鉱物資源機構,2010年3月19日,NAID 40017030605,2022年3月19日閲覧
  24. ^ a b ウィンストン・チャーチル、佐藤亮一訳『第二次世界大戦』、河出文庫、2001年7月1日、35頁。
  25. ^ 来栖三郎 『泡沫の三十五年』中央公論新社〈中公文庫〉、2007年、107-108頁。
  26. ^ コーデル・ハル 『ハル回顧録』中央公論新社〈中公文庫〉、2001年、180-183頁。
  27. ^ Joseph C. Grew, Ten Years In Japan, Hesperides, 2006, p.417.
  28. ^ James R. Leutze (1977年). “Bargaining for Supremacy. Anglo-American Naval Collaboration, 1937–1941”. University of North Carolina. pp. 16-17. ISBN 0807813052 
  29. ^ B.H. Liddell Hart(1999-5-7). "A History of the Second World War". p.199. ISBN 1447266927
  30. ^ J. F. C. Fuller(1993-3-22). "The Second World War, 1939-1945: A Strategical and Tactical History". p.128. ISBN 9780306805066
  31. ^ J.F.C.フラー 『制限戦争指導論』 原書房 2009年5月8日 P405 原出はチャーチルの『第二次世界大戦回顧録』
  32. ^ Samuel Eriot Morison, The Two-Ocean War, Naval Institute Press, 2007, p.42.
  33. ^ ジョゼフ・S・ナイ・ジュニア 『国際紛争 理論と歴史』有斐閣、2007年、137頁。
  34. ^ 吉田裕『アジア・太平洋戦争』岩波書店〈岩波新書〉、2007年、13頁。
  35. ^ ブライアン・ファレル「太平洋戦争初期における連合国側の戦略--東南アジア戦線」(防衛研究所、戦争史研究国際フォーラム,2009.9.30)[2]PDF.PP.1-2
  36. ^ 秦郁彦編 『昭和史20の争点』文藝春秋〈文春文庫〉、2006年、89頁。
  37. ^ 井口治夫, 「国際関係史のなかの日米経済関係 : 鮎川義介の日米経済提携構想とフランクリン・ローズヴェルト政権の実力者モーゲンソー財務長官」『アメリカ太平洋研究』 vol.13, 2013.3月, p.39, 東京大学大学院総合文化研究科附属グローバル地域研究機構アメリカ太平洋地域研究センター
  38. ^ オーナ・ハサウェイ/スコット・シャピーロ 著、野中香方子 訳『逆転の大戦争史』文藝春秋、2018年10月10日、254頁。ISBN 9784163909127 
  39. ^ a b オーナ・ハサウェイ/スコット・シャピーロ 著、野中香方子 訳『逆転の大戦争史』文藝春秋、2018年10月10日、17頁。ISBN 9784163909127 






固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ABCD包囲網」の関連用語

ABCD包囲網のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ABCD包囲網のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのABCD包囲網 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS