青い目の人形 青い目の人形の概要

青い目の人形

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/25 17:39 UTC 版)

「青い目の人形」(日本の皇室に献上されたとされるアメリカ各州の代表人形の一部)
アメリカに送られる日本の人形(後述の「青い目の人形」に対する各地域の代表の答礼人形とは異なる)

概要

日米の人形交換を進めた渋沢栄一と「青い目の人形」写真は渋沢史料館所蔵

明治時代末期の日露戦争終結により日本満州の権益を獲得する情勢になると、予てから中国進出を画策していたアメリカ合衆国との間では日本との政治的緊張が高まるようになっていた。また、アメリカ本国においても、日系移民が大量に移住することにより、経済不況の下にありながら1日1ドルの低賃金でも真摯に働く日本人によって、アメリカ人の労働力を損ねる恐れがあったためや、既に根付いていた人種的偏見等も相俟って(アメリカ合衆国の人種差別)、1913年カリフォルニア州議会による「外国人土地法(外国人土地所有禁止法)」の制定[1]1924年にアメリカ議会で「ジョンソン=リード法(通称・排日移民法)」が成立した事もまた、日本国内での反米感情を煽ることになり[2]、両国民の対立を深める一因になった。

そのような情勢下で日米の対立を懸念し、その緊張を文化的に和らげようと、アメリカ人宣教師シドニー・ギューリック博士(1860年1945年)が「国際親善、人と人との理解は大人になってからでは遅い。[3]」と子供の世代からの国際交流を重視すべく「世界の平和は子供から」をスローガンとして掲げ[4]1925年2月に「万国児童親交会委員(世界児童親善会)」を結成し、その第一事業として1927年(昭和2年)3月、子供同士の友好親善に代わって、廉価の人形を通じての日本との親善活動が行われた[5][注釈 1]。予てからギューリックと親交があり、近代日本財界の重鎮であった渋沢栄一1840年1931年)も、1902年から続いたアメリカへの度重なる渡航を通じて徐々に悪化していく日米関係を憂慮しながら、ギューリックの提唱に共感し、この事業の仲介を担った。これに伴い日本側も渋沢を代表とした「日本児童親善会」を結成し、アメリカから贈られる人形の授受や諸手続きの事務処理を行い、文部省外務省にはそれぞれ全国の児童たちへの人形の配布、関税に対しての優遇措置を依頼し、経費の方は渋沢関連の団体が大部分を負担する形を取った[6]。この「人形計画」に対し、幼稚な発想だとか日本人への侮蔑を意識した冷笑的な向きもあったが、「生来子どもの心に偏見はなく、友情にあふれているもの、子ども世代から親善と理解を育てたい」の理念を掲げ、全米にこの運動を呼び掛けた。

1926年の夏にはアメリカから日本との親善活動の一環として子どもたちのサマースクール、教会の日曜学校、社交団体の参加者によって人形の洋服の製作が行われ[7]同年10月-12月には全米より人形が集められた。翌年のひな祭りの日である1927年3月3日に間に合う様に日本郵船等5社(他に大阪商船(現・商船三井)、Dollar Steamship Company(現・アメリカンプレジデントラインズ)、Kawasaki Roosevelt Line(現・川崎汽船)、China Mutual Steam Navigation Company(現・ブルー・ファンネル・ライン英語版[8] )の前橋丸、アングル丸など12隻[9]に分乗し日本の子供に12,739体[注釈 2]の「青い目の人形」が、遅れて鳥羽丸で各州代表の人形48体[注釈 3]と「ミス・アメリカ」及びワシントンD.C.が贈られた[10]

12,739体の「青い目の人形」はニューヨークサンフランシスコを出港し、1927年1月17日に横浜港へ到着したサイベリア丸をはじめ、次々に人形を乗せた船便が横浜神戸に着いた後、子どもたちへの人形に対する興味を通じて友情や平和への関心を導くために予め東京市内の有名デパートをはじめ、大阪など地方の会場での「青い目の人形」の展示会が催されたうえで、1927年3月3日に東京の日本青年館や大阪の大阪市中央公会堂で歓迎式典が行われ[11][12]、全国各地の幼稚園・小学校等に配られて歓迎された(但し、数が限られていたこともあり[注釈 4]、全ての小学校・幼稚園など(昭和2年当時:小学校25,546、幼稚園1,182、盲・ろう・養護学校118、高等女学校898、合計27,744(文部省管轄。これに保育所300余りも加わる)[14][15][注釈 5])に配布されたわけではなく、大阪府のように抽選で決められた地域もある[16][17])。道府県ごとの人形の分配については均等とは限らず、文部省の基準により、師範学校の附属校や道府県庁所在地及び主要都市ならびに外国人の多く滞在する地区の幼稚園・学校などから優先されているが、あくまでも目安であり、あとは自治体の判断に委ねられることになった[18][19]。また、一部の人形は個人にも配布された。

「ミス・アメリカ」及びワシントンD.C.と48体の各州代表人形は天候不良による遅延のため、1927年(昭和2年)3月14日に到着し、3月18日に天洋丸の船室で児童の出迎えを受け、横浜の本牧小学校で歓迎式典を開かれた後、皇室に献上される為同月26日に東宮御所に運ばれた(48体の各州代表人形は後に香淳皇后より、内帑金(ないどきん)が下賜され、子供たちの利用が多い東京博物館(現国立科学博物館)の上野別館に建てられた人形の家材の5分の1の模型で1階は和室、2階が洋間のしつらえになっていて、庭には遊具が備えられていた[20])にて、同数の日本人形と共に6/11~7/31の会期中に『全国学校科学教育展覧会』[21]で展示されていたが、1945年(昭和20年)1月の空襲による爆撃に伴う混乱によりそのほとんどが行方不明となった[22]。)。

返礼として、渋沢栄一を中心とした日本国際児童親善会による呼びかけで、人形が贈られた幼稚園・小学校等の児童から集められた募金を元に製作された「答礼人形」と呼ばれる市松人形58体(「ミス大日本」及び1道3府43県や主要6都市・統治していた外地4箇所の名を冠した人形)が同年11月に天洋丸で日本からアメリカ合衆国に渡り、全米の児童たちの歓迎を受けたうえで各地の博物館・美術館などに寄贈された。

日本に贈られた「青い目の人形」だが、太平洋戦争第二次世界大戦)中は、アメリカを敵視する風潮[注釈 6]の下で、敵性人形としてその多くが処分された。しかし、処分を忍びなく思った人々が非国民と思われる覚悟で人形を奉安殿備え付けの棚や天井裏、床下、物置、石炭小屋、教員の自宅などに匿い、戦後に相次いで発見された。現存する人形は2024年5月現在、345体にすぎないが、日米親善と平和を語る資料として大切に保存され、学校の教科書[24]、絵本や小説・アニメなどの題材にもなっている。答礼人形の方も不明になった人形があるものの、大半の人形が今もアメリカの各公共施設で保管されており、互いに人形の里帰りや「新・友情人形」寄贈などのイベントといった形で現在も子供同士の交流が行われている。

人形計画自体は当時の移民問題の解決に直結することはなかったが、戦争を挟んで人形を通じての文化的な交流を続けるうえでの一つのきっかけにはなったとも言える。

人形について

青い目の人形

寄贈の経緯

青い目の人形「エレナ」(横浜人形の家・レプリカ)

「青い目の人形」は、シドニー・ギューリックが1888年に日本を訪問して以来、布教や教育活動を行う一方で日本の人形に関する古来の文化を知ってきた経験から[10]、日本との親善を目的として「日本の雛祭りに人形を送ろう」と呼びかけたことによって全米から集められたものである[25][26]。この友情人形は前述の日米間の友好の他にも、先年の関東大震災で人形を失った少女たちを慰める意味を持っている[27]

ギューリックらによって結成された世界児童親善会は、人形を日本に贈るプロジェクトに先んじて、まず友情人形を募るポスターや手引きの冊子"DOLL MESSENGERS OF FRIENDSHIP"を配布し、この内容に沿って人形を集めて贈るための指南を行った(これは後に「可愛いお人形が親善のお使(かわいいおにんぎょうがしんぜんのおつかい)」の題で日本語に翻訳され、日本の小学校や幼稚園などに配布された)。前述の冊子に記された内容を元に、人形を贈るための役割の分担が行われた。男の子達は後述の「友情表示人形」をお金を集めて(バザーや野外劇などを開いて資金を集めたケースもあった[28])購入し、日本へ送るための旅券の手配や事務・会計を行い、女の子達や母親は、人形の衣装や付属品を手作りした。教師らは人形交流の意味を児童たちに理解してもらうために、日本へ行き着くまでの道のりや日本の文化などを紹介することを教育の一環とした[29]。人形には独自の名前が付けられ、友情の手紙や手荷物が添えられたうえで、幼稚園や小学校などで各々の人形の送別会が催された。世界児童親善会は人形旅行局を特設し、地方委員会を設け、友情人形を日本に贈るための手続きの代行を行った。このプロジェクトに携わったアメリカの児童ならびに保護者、教師、関連団体等は凡そ260~270万人と言われている[30]。人形を贈った州はオハイオ州の2,283体が最多で、次いでペンシルベニア州の1,935体、ニューヨーク州の1,436体、マサチューセッツ州の966体と続く(日本人が多く住む一方で、日系移民の排斥運動が盛んなカリフォルニア州からも461体が贈られた)[31]。人形の凡そ8割が東部の州から贈られたという[19]。州ごとに集められた人形は、新聞社等によって構成された委員会による選考により、代表人形として各1体が選抜され、さらにそれらの中から「ミス・アメリカ」が選ばれることになった。

人形の特徴

当時のアメリカでは人形の量産体制が築かれており、アメリカの世界児童親善会が ジェニウィン社エファンビー社ホースマン社 に発注し、衣装を着ていない状態の裸人形を「友情表示人形」として1体3ドル(地方委員会を通じて購入すると送料無料、3体のセットで1体あたり2ドル90セント、1ダース以上では1体当り2ドル75セント。着衣の人形になるとさらに各1ドルかかる)で斡旋した。頭から肩までひとつづきのショルダーヘッドタイプのボディに、胴体は綿を詰めて布でくるんだ構造になっており、背中にはメーカーの刻印(ジェニウィン社:"GENUIE MADAM HENDREN DOLL (数字) MADE IS USA"、エファンビー社:"EFFANBEE ROSE MARY WALK TALK SLEEP MADE IN USA"、ホースマン社:"E・L(C)HCO EL HORSMAN"。メーカー名の刻印が後述の学校の人形名になっているケースもある。)が押されている[28]。人形の中には瞼を開閉したり(スリーピング・アイ)、体を起こしたり腹を押すと鳴いたりするカラクリ仕掛けとなっているものもあった(「ママー」と泣くものが証言に多く見られる[注釈 7])。友情人形には説明書きとして、取り扱い方や遊び方が残されているものもある[32]

ちなみに、「青い目の人形」は一体ごとに衣装や体形などデザインが異なっていた(大半は人形旅行局で用意した前述の3社の人形を元に児童たちがカスタマイズしたものである一方、一部手持ちの人形を差し出した例もあった。そのため、メーカーの規格(1フィート5インチ:40cm前後[28])に当てはまらない人形も散見する(現存の人形でも30〜60cm、後述の関東州に送られた「メリー・マーガレット」の90cmの例もある))。

人形に添えられたギューリックの手紙では「友情の人形」と呼称されており[25]、贈り主側が「青い目の人形」と名付けたわけではない[注釈 8]野口雨情が「青い眼の人形」の詩を発表したのは1921年(大正10年)10月のことで(童謡雑誌『金の船』1921年12月号)[33]、人形交換よりも数年さかのぼる。これに本居長世が作曲したのが童謡「青い眼の人形」で、1923年にはアメリカでも関東大震災の義援金を集める目的[34]で演奏され、好評を博していた[注釈 9]。「青い目の人形」との呼称は、これに因んで付けられたと思われる。贈られた人形はメーカー製から個人寄贈まで様々で、必ずしも青い目をしているものではない。

アメリカから贈られてきた友情人形は野口の詩にあるセルロイド製ではなく、多くが前述メーカー既製品のコンポジション・ドール英語版(パルプやおが屑・土を練り混ぜた上で精製し、乾燥させて糊やグリセリンなどを混ぜたものを仕上げ塗りし、顔を描き入れた人形)[注釈 10]であり、ドイツ製などのビスクドール素焼きの人形)もわずかに含まれている[注釈 11][36]

「青い目の人形」は、前述の冊子に記されたように雛祭りに合わせて女児に贈られることを前提としたため、大半は女の子の人形としての顔立ちや着飾りであったが、愛知県新城市立東陽小学校に贈られた「ノルマン」のような男の子の人形も少ないながら見受けられる[37]

日本への寄贈とその後

アメリカから送られた「青い目の人形」と歓迎のための日本人形。鴻巣雛の産地で知られる鴻ノ巣町にて。(1927年)

当時の日本では前述の童謡『青い眼の人形』でも歌われたようにアメリカ人形が珍しがられたことや、大正天皇崩御が直前にあったことから主な行事を自粛しつつも、友情の人形が贈られることを心待ちにしていた雰囲気もあって、寄贈先の小学校や幼稚園などでは、アメリカから日本の児童たちに対して純真な好意と友情とを伝えるべく[29]、遠路はるばる旅行してきたという名目で寄贈されたうえでの慰労のために、日本人形に囲まれての盛大な歓迎式が行われた[38]。返礼として後述の答礼人形の他にも人形の贈り主に対し、お礼の手紙などもアメリカへ贈られた[39]。また、「青い目の人形」の人気にあやかって、元の人形をコピーしたもの等も販売されていた[40][注釈 12]

人形には本体に付随してパスポートや旅券・切符(経費としての1ドル(1体につき)のうち、1セントはパスポートの発行手数料、あとの99セントが人形の贈り元から日本の各地方の児童たちへ渡されるまでの旅費一括を特例として充てられた。なお、友情人形に対しての関税は免除されている[41])が用意され、パスポートには名前や発行番号、出身地などが記載されている(例:千葉県・成東小学校の「アリス・プレーブル」 - Alice Preble、No.860、Portland,Maine[42])。日本には前述の通り1万2千体以上の人形が贈られているが、中には発行番号が左記の数字よりはるかに大きいもの(例:島根県・今福小学校の「キャサリン」のNo.48129や茨城県・常陸大宮市歴史民俗資料館の「クリッシー」のNo.45857[43]、広島県・鞆幼稚園の「ドロシー・フィリップス」のNo.45645)もある[注釈 13]。現存している「青い目の人形」の中にはパスポートが失われ、本名・番号・出身地が不明のものも多く、戦後にギューリック3世英語版に再発行してもらったケースもある。

パスポートは日本に人形が輸入された際に児童向けに翻訳されたものもある[44]

(第一面)

 VISE 人形査證

 日本への親善旅行であることを証明する ニューヨーク 日本総領事 サイトウ・ヒロ

 (印)CONSULATE GENERAL of JAPAN・NEW YORK

 No.xxxx 特別旅行免状 子どもの世界親善協会(ワールド フレンドシップ アマング チルドレン)の依頼により発行

(第二面)

 日本の少年・少女の皆様へ

 この旅行証は、誠実で温良なアメリカ市民「xxxx」をあなたがたに紹介するものです。

 彼女は、1927年3月3日、親善使者として日本を訪問、ひなまつりを見に行きます。

 この使者は、アメリカの少年・少女を代表し、彼らのあいさつと親善のメッセージを運んでいます。

 どうぞ日本にいる間「xxxx」の世話をし、必要なお手伝をお願いします。

 彼女はあなたの国のすべてのおきてやきまりに従います。

  皆様の幸せを願って ”アンクル サム”(サム伯父さん)[注釈 14] xxxxxxxx.xx 1927.

 人形説明書(鼻や唇の特徴は省略されているが、英語原文のみに記載)

  名前 xxxx

  目の色 ※青、茶色など

  髪の色 ※金色、褐色など

  出生地 xxxxxxxx

参考のために、戦後発行されたパスポートについても記載する。

United States of America Passport

※右欄には人形の写真(Photograph)が貼られている。

 Name : (人形の名前)

 Eyes(Color) : (目の色)

 Hair(Color) : (髪の色)

 Date of Birth : (誕生日)

 Place of Birth : (出生地)Adelphi英語版, Maryland, USA

 Date of issue : (発行日)

 Date of expiration : Never(有効期限、不定)

 Passport Number : (パスポートの番号)

 Signature of guardian : Sidney L.Gulick,3d(署名)

贈られた人形たちには生徒らによって名前(パスポート記載の名前または愛称)がつけられ、文部省通達によって学校の備品と同等の丁重な扱いを受けたうえに[2]、ガラスケースなどに入れられて学校の昇降口や校長室の前に飾られていたという。アメリカ人形だけでは淋しいと日本人形と一緒に飾られた事例もある[45]。学芸会や運動会、遠足などの学校の行事に人形を参加させたケースもある[46]。尋常小学校の国語の教科書にも『お人形の歓迎會』として掲載されたこともあった[2]。雛祭りでは雛人形と共に飾られたこともあり(前述の冊子には雛祭りについて紹介し、人形が贈られる3月3日に「青い目の人形」が飾られることを念頭に置かれた記述がある)、戦後も一部の小学校や幼稚園でこの形式の雛祭りが催されている。

しかし、今日において学校や博物館などで大事に保管されている「青い目の人形」がある一方で、人形に関するエピソードが語られることもなく、時代の経過とともに忘れ去られた人形も数知れない。

「青い目の人形」の歓迎から年月が経って、1931年(昭和6年)には渋沢栄一も死去し、さらには人形寄贈当時の児童や教員らも卒業などで学校を離れていったことや、人形をあてがわれた子供も成長するにつれて、平和を愛でる純朴な心に対する教育の面でのフォローがなされなくなったこともあり、友情人形や人形交流への関心は次第に希薄になってしまった[注釈 15]。「青い目の人形」を通じての交流に尽力したミネット・ビー・ムーアは、1935年(昭和10年)に博物館に展示されていた人形がネズミにかじられたりなど朽ちている様子を見て嘆いていた[47]

第二次世界大戦に入ると、日本人のアメリカへの憎悪の念は人形にも向けられ、「青い目の人形」を含むアメリカ人形の多くは竹槍訓練の標的にされたり焼却されたりなどして滅失し(現在残っている「青い目の人形」の中には当時暴行を受けた痕跡が見られるものもある)、あるいはアメリカ軍による空襲原子爆弾投下といった戦災や災害[注釈 16]で失われたり、戦後、校舎改築等の際に発見されても、寄贈された経緯を知らずに古い人形として廃棄されたと思われるものも少なくない[48]

こうした受難があったにもかかわらず、残っていた人形が後にテレビ等で紹介された事と共に、地方に残る「青い目の人形」の再発見や、人形親善の継続としてアメリカから(ギューリック3世らから)の学校などへの新しい人形(新・青い目の人形)の寄贈が行われるようになった。戦時中に処分された人形や、アメリカへの里帰り(平成元年(1989年)10〜12月にかけてワシントンボストンロサンゼルスサンフランシスコを廻り日本国内の「青い目の人形」92体を展示[49])の最中に盗難に遭った人形(後述)[注釈 17]に対しても、代替の人形が贈られている。

答礼人形

贈呈の経緯・人形の特徴

インディアナポリスに贈られた答礼人形(「ミス島根」。台座に「島根縣(県)、MISS SHIMANE」と記されている。)

アメリカから友情の証として「青い目の人形」が日本へ贈られた後、日米関係委員会委員の渋沢栄一外務省から依頼され、全国の役場や学校を通して集められた募金を元に製作された市松人形がアメリカに送られた。この際は、雛祭りに送られた人形への答礼として「日本からもクリスマスに人形を送ろう」というコンセプトのもとに送られている[25][26]。これは、「青い目の人形」が「単なる人形ではなく本当に生命を持った使者」として日本に派遣されたことに対して答礼人形を贈ることが「美しい礼儀」であることの姿勢でもある[29]

当初はギューリックは「青い目の人形」の贈答に対し、日本国内の経済事情[注釈 18]を鑑み返礼は無用と断っているため、代案として贈られた人形の相当数のプレゼント[注釈 19]ではなく、少数の精巧に作られた人形を以って返礼を行うこととした[50]

答礼人形に関しても冊子『答礼の使者として米国へ人形を送りませう(とうれいのししゃとしてべいこくへにんぎょうをおくりましょう)』が各小学校・幼稚園などへ配布され、これに基づいて人形作りのための寄付や、答礼人形の送別式が実施された[50]

「青い目の人形」が送られた各学校・幼稚園等の児童から1人1銭(例外として、答礼人形への寄付の他に、日米親善の意味で日本人形を「青い目の人形」と並べて飾る目的で購入するために各1銭ずつの2銭募金を行ったケースもある[51]。)の募金を行い、そのお金(約261万人の児童の寄付[52]など29,000円程[53]。「ミス大日本」には皇后より千円が下賜された[54])で東京雛人形卸商組合傘下の東京の人形師たち(平田郷陽、滝沢光龍齊ら十数名)によって製作された100体以上の人形(背中に作者の銘が貼り付けられた)の中からコンテストで51体を選出[2]、「ミス大日本」(又は「ミス・ジャパン」。別称の「倭日出子」は渋沢栄一が自ら名づけた)ならびに主要都市(東京市、横浜、名古屋、京都市、大阪市、神戸)の計7体は京都の大木平蔵商店(現・丸平大木人形店)に依頼して創られた[55][56]。総じて日本国際児童親善会を通じてアメリカへ贈られた答礼人形は58体(このほかに、付き添いの人形数体も加わる)になる。

「青い目の人形」がメーカーの指定した人形の他に個別に持ち込んだものも含まれ、身長や身なりが不揃いであったこととは対照的に、答礼人形の背丈は概ね二尺七寸(約81cm(ミス大日本は90cm程[57]))、桐塑製(桐のおが屑と正麩のりを混ぜ込んだものを乾燥させたもの。但し、「ミス大日本」他6体は桐素材の丸彫り)の生地に胡粉[注釈 20]を塗り上げた本体に、有名デパート(三越白木屋髙島屋松屋松坂屋[2]特製の友禅縮緬と本金の帯、外国へ旅立っても恥をかかないようにと素足に両国の職人に作らせた足袋[2]を履かせ、コンビネーションの洋風肌着を着せられた[60]

答礼人形の選別から漏れた人形に関しては秘かに地方で処分されたと言われているが、ごくまれに店頭で販売されていて、昭和4年にある店で平田郷陽作の人形を80円で購入し、「さくら」と名付けて戦後まで保存されていたというケースなどもある[61]

アメリカへの寄贈と経過等

地域の名を冠した人形は各道府県に送られ、それぞれの道府県の学校で(但し外地へは地理的な関係上、答礼人形は送られず、それぞれの外地の名を冠した答礼人形は東京博物館で展示されることになった[62]。)送別式を開いた後、再び集められた上、昭和2年11月4日に日本青年館で壮行会が開かれて[56][63]、アメリカに渡ることとなった。それぞれの人形は、地域名を冠した名前が呼びづらいことに配慮して、台座に記された名前の地域名を取って「ミス○○」と呼ばれた。

人形本体とは別に、アメリカに渡る際は人間と同様に、パスポート[注釈 21]、客船の一等切符なども用意され、草履、駒下駄、傘、鏡台や箪笥などといったお道具も含めたものとして作られている。製作費用は、人形本体約150円、衣装約150円、お道具約50円、計1体あたり約350円(アメリカからの友情人形が一体3ドルだったのに対し、一式で当時のレートでは150ドルと50倍の費用がかかった[54]。2010年現在の貨幣価値で約260万円 - 280万円程度。当時小学校の教員の月給の平均は56円で墨田区の一戸建て(12坪=39.67m2)が600円で購入できた。なお、当時の日本人形は一般では最低で1円位から高くても5~6円、極上の人形でも70・80円もするものもあった[65])であったという[1][2][25][26]。児童が書いた手紙以外にも、「ミス大阪市」が日本から持参した煎餅の入った菓子缶[66]や、地方ゆかりの品々を手土産として添えられた人形もある(「ミス奈良」:鹿の置物、「ミス高知」:珊瑚の細工物[67]、「ミス静岡」:煎茶道具一式[注釈 22]など)。

人形たちは昭和2年11月10日に天洋丸で横浜を出港し、アメリカに送られた後はすぐに各州に届けられるのではなく、昭和2年11月19日ハワイホノルルに到着し、同11月25日のサンフランシスコ到着を振り出しに[68]長期にわたりアメリカ各地をまわって紹介された(まずは2グループに分かれ、「ミス大日本」ら17体はロサンゼルスなどの陸路を経て12月15日シカゴ、12月20日にワシントンD.C.、12月28日にニューヨークに到着[69]。残りの41体はパナマ運河を経由[注釈 23]し、昭和3年1月4日にニューヨークで合流。1月6日にボストンで歓迎会が行われた[71]。その後は人形は世界児童親善会に託され、10体ずつのグループに分散して1月〜7月[71]にかけてアメリカの479の都市(「青い目の人形」を寄贈した都市数とほぼ同じ。ちなみにニューメキシコ州は「青い目の人形」の贈り元のリストに入っていない[31])にて千回以上の歓迎会が行われ、展示された後に再びニューヨークで合流した[72])。答礼人形は美術品としての価値があるため、個人・法人から買い取りたい、引き取りたいとの申し出もあったが、各州の博物館や美術館などの公共施設に預けられることになった[注釈 24][71]

こうして引き取られた人形の中には、道中での移動展示を行っていくうちにその都度人形と台座を取り外す必要があった経緯もあったため[2]、各地をまわる間に人形本体と台座が入れ違いになっていたものもある(人形自体には地域名の旨が書かれておらず、着物に描かれた家紋や市章といった絵柄や、日本で送別会が行われた当時の写真との違いや参加者の証言などから後年に判明したものがほとんど)。人形のその後は、来場者に見られないように隠蔽されたり売却されたりして存在が忘れられたり、災害に遭ったケースもある[73]が、一方で日本と比べると戦時中も比較的大切にされていたものが多く、48体(うち出所不明3体)が現存している。

答礼人形本体も長年収蔵された結果、各部に劣化が見られたこともあり、多くの人形が一旦日本へ送られ、職人たちにより修復されていった。この外、人形交流の一環として日本に里帰りした人形が送別会が行われた故郷の博物館やデパートなどで展示され、「青い目の人形」と同様、新たに日本人形がアメリカへ贈られている(後述)。

これらの人形とは別に、自治体独自で「ミス岡崎」(1928年。現在はニュージャージー州ニューアーク市の個人所有[74])、「ミス福江渥美」(1927年。児童らの一銭募金によって製作された人形ではなく、個人から寄贈されたもの。現在はロサンゼルス郊外のフラートン市のメイン図書館所蔵[75])等も寄贈されている[76]


注釈

  1. ^ ギューリックらによって結成された世界児童親善会は日本に限らず、1928年にはメキシコへ30,000個の学校かばん、1929-30年にはフィリピンへ28,000個の親睦宝石箱、1931年にプエルトリコへ6,000個の親睦宝石箱、1932年に中国へは20,000個の親睦ホルダーを友好の証として寄贈している。出典:To Clear up a Cloud Hanging on the Pacific Ocean: The 1927 Japan-U.S. Doll Exchange - Rui KOHIYAMA・著武田・1985年 p.231、'Messengers of Goodwill': America’s Tokens of Friendship and Power。この手段は、当時の国際状況において外国の子供同士が直接触れ合う機会がない中での、自国内で量産できる人形などを象徴として、メッセージを互いに交換しあうことによって成立するものであると考えられた。その見返りも日本の答礼人形以外に、メキシコの手工芸品の展示やフィリピンからの子供用ラジオによる演説といった形で実現された。
  2. ^ 寄贈された人形の個数は資料により異なる。本記事にある12,739体は渋沢史料館提供の『青い目の人形にはじまる人形交流展(横浜人形の家・刊)』に記載された数であり、American Blue-eyed Dolls Locations には12,294体、"Dolls of Friendship"(1930年刊)にはアメリカ各地より贈り出されたのが11,276体(武田・1985年 pp.233〜238)、『渋沢栄一伝記資料第38巻』には13,357体(破損6)と記されている。この他、個人篤志家からの157体や各州代表人形も贈られている[1]。出典:親善人形の会ニュース第190号(SWFファイル) 2015年6月6日閲覧。又、後述の参考資料の"WELCOME TO THE AMERICAN DOLL MESSENGERS"によると、世界児童親善会から贈られた12,739体のうち諸事情により不適当となった704体を除き、日本側が受け取った人形の数は12,035体であり、そのうち破損した62体を除いた11,973体が分別され、10,761体が日本国内の学校や幼稚園などへ寄贈された。他の1,212体は文部省のストックとして保管され、外地の分を含めて分配された他、修繕した62体を含めたものが国内の学校などへ追加配分された(長嶺 pp.256・257)。こうした「青い目の人形」が贈られた体数は文献によりまちまちであるため、本記事では広く用いられている冒頭の出典の12,739体のケースを適用する。
  3. ^ アラスカハワイは当時は含まれていない。それぞれ1959年に州に昇格。
  4. ^ ギューリックの意図では子供たち一人一人に人形が配られることを望んでいたのに対し、全米から集められた人形が相対的に少なかったことから学校単位で配られることにより、児童全員に人形を紹介してもらうことで本来の目的を果たそうとしたのだろう[13]
  5. ^ 雛祭りが女の子のお祭りという性質上、旧制中学校には贈られず、高等女学校にも配布されたと思われる。
  6. ^ もっとも、当時の人形に対する処分が実際に対米政策として、軍の命令や文部省の通達によるものだったのかは、今となっては確証がない[23]
  7. ^ 「ママー」の機能は、童謡『青い眼の人形』でも歌われているように、日本に送られながらホームシックになり、故郷にいる母親を想う一方で、日本の児童たちに母親代わりに可愛がってもらう意図があると思われる。
  8. ^ みやぎ青い目の人形を調査する会ニュース No.11 2002.12.20 によれば、「青い目の人形」の表現は特定の人種や身体的特徴を指す場合があるため、ギューリックも現在の3世に至るまで「青い目の人形」とは呼んでいない。実際、大半は白人の人形が贈られているが、中には黒人(愛知県田原中央小学校(青い目の人形HP))やアメリカ原住民[1]の人形が贈られたケースもある。これは、日本からの答礼人形を一部で「黒い目の人形」と呼ぶことに関しても同様といえる。
  9. ^ 「青い眼の人形」が流行した当時も、人形の歓送時の式典で歌われた「人形を迎える歌」「人形を送る歌」を始め、「青い目の人形」のブームにあやかって多くの楽曲やレコードが発表されたが、童謡の方の印象が大きかったせいか、多くは戦中までに忘れ去られてしまった。
  10. ^ 是沢 pp.75〜76によると、ゴムやセルロイドは輸送中の劣化や破損の恐れが高いため、コンポジション・ドールの方が壊れにくい素材として採用された経緯がある。要するに、消耗の著しい玩具として輸入される人形とは異なり、友情人形は友好の証として長く愛されることを前提としたため丈夫な素材が求められていたのである。
  11. ^ ビスクドールには次のケースが考えられる。(1)第一次世界大戦後、ドイツの敗戦によりヨーロッパから職人がアメリカへ移住して製作された人形や、日本から輸出されたものの逆輸入、ヨーロッパから持ち込まれた個人所有のアンティックドールのようなもの (2)ヨーロッパで製作されたビスクのヘッドを輸入してアメリカで胴体や衣装などをこしらえた人形。[35]
  12. ^ コピーの人形のため、当然正規のパスポートは持っておらず、また友情人形にある目の開閉や「ママー」と泣く機能も付いていない(逆に加藤の著書にて友情人形の機能を備えたものも販売されていたという証言もある。おそらくメーカー仕様の人形を元に国内で拵えたものか、予め人形の身なりで独自に輸入したもの(あるいは舶来の土産物として持ち込んだ)と思われる)。
  13. ^ 前述の冊子には人形が10万体以上寄贈されることを望んでいたため(実際はその1/10程度が贈られた)、それを見込んだ数字と思われる。
  14. ^ "Uncle Sam"は頭文字が"U.S."であることから、アメリカ合衆国政府や一般的なアメリカ人を指す言葉でもある。
  15. ^ こうした時代背景から、児童の人形に対しての扱いも時勢により変化が見られ、平和や友情を携えて迎え入れられたはずの「青い目の人形」も、日米開戦時には当時の新聞記事にも見られるような「仮面の親善使」とか「敵国のスパイ」として憎しみの対象になったと思われる。
  16. ^ 戦前の日本の学校や幼稚園はほとんどが木造で災害に対して脆弱な造りだったことから、これらが起因して人形が失われたケースが戦時中同様に多かったのかもしれない。
  17. ^ 盗難に遭った人形はいずれも年代物のビスクドールだったため、希少価値があるものとしてマニアに目を付けられていた。
  18. ^ 当時は不景気で普段は小遣いがほとんどなく、祭りの日に一銭で二個の饅頭が買える状況であったほどの欠食児童がいた有様だった。
  19. ^ 実際は「青い目の人形」の数に相当するプレゼントを贈る動きもあった。朝日新聞 昭和2年3月11日号『日本のお人形五十萬個をアメリカから注文し來る 製造地の埼玉鴻ノ巣町大喜び 念入りに作って四月中旬発送』には、埼玉県鴻巣市に4月中旬発送を目指して50万体以上の人形の受注があったほか、武田・1985年 p.27によると、ギューリックの方からも友情人形に対するお礼の手紙類とは別に、児童の絵画を納めたアルバムや、「友情袋」と称した小物の詰め合わせなどを贈るアイデアも出されていた。
  20. ^ 胡粉を塗り付けた人形の肌はアメリカで歓迎を受けた際、頬ずりやキスといった現地でのスキンシップの風習で傷んだこともあり、日本人形の仕上げに関する改良の起因にもなったといわれている[58]。同様に手先の可愛らしさから、握手の連続で手垢によって黒光りしたものもある[59]
  21. ^ 「青い目の人形」と同様に寄贈のメッセージや身分証明が書かれている。例:「ミス大日本」Name:Miss Hideko Yamato Eyes(colour):Black Hair(colour):Black Nose:Medium Mouth:Small Place of birth:Japan(ドラマ『青い目をしたお人形は』より。)。なお、パスポートは着物の袂に入れただけだったため、紛失してしまい、人形の名前が認識できないケースも多かった[64]
  22. ^ 富士山三保子さん - すたっふどらいふblog 2016年6月25日閲覧。なお、煎茶道具等は紛失したため、2016年の里帰りの際に新調されたとのこと。煎茶道具は静岡県茶業組合より他の答礼人形にも寄付され、ミス岩手、ミス香川などの所持品としても現存する。
  23. ^ 鉄道での人形搬送は高額のためや輸送中の破損のおそれがあったことから17体までとした[70]
  24. ^ 友情人形と同じように学校単位で人形が配られず、各都市で歓迎を受けたうえで博物館などに寄贈される理由としては、多くのアメリカ人に日本の文化を知ってもらいたいという意図があったからである。[13]
  25. ^ 原典:『岩手日報』昭和2年3月30日付。但し誤りも一部あって、下閉伊郡(『岩手毎日新聞』昭和2年4月5日記載。)が抜けている。また、現存する人形の中にはリストにない学校も含まれている。
  26. ^ 是沢 巻中グラビア。朝日新聞 昭和2年3月17日号『皆さんこんちは きのふ箱から出た 青い眼のミス・アメリカ』によると、「これはニューヨークの”メリホレント コンミネア チャーチ”[229]からだしたもので最初の名は『アンナ・シェー』嬢といひ、その所持してゐる旅行免状(※現存せず)第三千二百九十七號には身長一尺二寸(約36cm)、眼は青く、髪は黄金色で鼻は大きく口は小さい(以下略)」とある。
  27. ^ 武田・1985年 巻頭口絵p.2には東京博物館展示の「人形の家」の写真(国立科学博物館所蔵)に「ミス・カリフォルニア」と思われる人形が写っている。参考URL:Doll House - Friendship Dolls
  28. ^ パスポートは紛失しているため確証はないが、日本に来た当時は、"Jennifer"[283](ジェニファー)として歓迎されていたと思われ、呼びづらいせいか訛って今の名前"Ginella"[284]になったのだろう。
  29. ^ 本来は寄贈者の名前にちなみ、「アン・マジュリー」と呼ぶのが正しいが、埼玉県越谷市立大沢小学校の「ワーテラ・ヘズ」の例にあるように、映画などで慣れ親しんだ名称で通っている。
  30. ^ 杉村 p.19 ※注:本文中の原典の『満州日日新聞』の1927年5月10日号は人形の写真の記載であり、記事の方は5月7日号のものである。
  31. ^ 「ミス大日本」は巡回訪問に加わらなかったため、取り違えの心配はなかった[472]

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