里見氏 里見氏の概要

里見氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/20 03:16 UTC 版)

里見氏
本姓 清和源氏新田氏
家祖 源義重
里見義俊[1]
種別 武家
大名改易
士族
出身地 上野国碓氷郡里見郷[1][注釈 1]
主な根拠地 安房国
著名な人物 里見義実
里見義堯
里見義弘
里見義頼
里見義康
支流、分家 大岡氏
太田氏
田中氏
天童氏
鳥山氏
蜂須賀氏ほか
凡例 / Category:日本の氏族

概要

里見氏は新田氏の庶宗家であり、「大新田」氏とも呼ばれた[1]鎌倉時代には御家人として将軍に近侍し、鎌倉時代末の動乱では惣領家新田義貞と行動をともにした。南北朝期には一族も分かれ、南朝方・北朝方に別れて戦った。

安房里見氏の家伝では、里見氏の嫡流である里見義実が安房に入国したとされるが、系譜関係は定かではない。安房里見氏は戦国大名として成長して房総に割拠し、江戸時代初頭には安房一国を治める館山藩主となったが、1614年里見忠義の代で改易された[3]

このほか、鎌倉時代から室町時代にかけて諸国に分かれた里見氏がある。出羽里見氏、美濃里見氏、越後里見氏、榛名里見氏(仁田山里見氏)などである。

里見氏の発祥から室町時代まで

里見氏の起こり

里見氏は贈鎮守府将軍・新田義重の庶長子・新田義俊(里見太郎)を初代とする。里見の名は新田義俊が上野国碓氷郡八幡荘里見郷(現在の群馬県高崎市上里見町・中里見町・下里見町)に移り、その地の名を苗字としたことに発する[2][1]

系図によると義俊は新田竹林六郎太郎とも称している[要出典]ことから、新田荘内にも所領を持っており、里見氏の本拠を竹林(高林)郷とする研究もある[要出典]

鎌倉時代・室町時代

鎌倉時代になると、義俊の長子里見義成源頼朝に仕えて御家人となった。義成は頼朝に重用され、頼朝の死後も代々の将軍に近侍した。

鎌倉時代末の里見義胤(義俊の6世の孫)は、本宗家の新田氏と共に倒幕軍に参加。新田義貞に随行し、鎌倉攻めに加わり功を挙げ、戦後越後国守護代に任ぜられた。南北朝の動乱では南朝方に従っていたものの、宗家が没落すると一族の中に北朝側に参加する者が現れた。室町幕府に従って美濃国に所領を得た里見義宗もそのひとりである。義宗は観応の擾乱足利直義に従ったが、直義は敗北して美濃里見氏は所領を失い、没落した。

その後、鎌倉公方足利満兼に召しだされて常陸国に所領を得た人物に、里見家兼がいる。家兼の子の里見家基は、足利持氏に奉公衆として仕えた。家基は、上野国・常陸国などに所領を与えられていた。しかし永享の乱で家兼が自害、続いて結城合戦で家基・家氏父子が討たれ、上野里見氏嫡流はここで断絶した[4]

家基のもうひとりの子とされる義実は安房国に落ち延び、のちに安房里見氏の祖となったとされている。だが、近年において、義実(あるいは家兼)を旧来の伝承による上野里見氏嫡流ではなく、美濃里見氏・義宗の末裔であったとする説が出されている[5][6][7]

室町時代以降、発祥地・上野国における里見氏は、里見義連(義胤の子)の三男である仁田山氏連の系統に属して、戦国時代に二階堂政行配下で仁田山城主であった里見家連(宗連)などが散見され、家連は後に上杉謙信の討伐を受けて戦死を遂げて、子の宗義(後に戦死)と義宗は碓氷郡里見郷に逃れて、榛名里見氏と称したという[10]。また、家連の許には同族の縁を頼り、安房国を追われた安房里見氏一族の里見勝広という人物が身を寄せたと伝えられる[注釈 2]

安房里見氏

安房里見氏(あわさとみし)は、戦国時代安房国を掌握、房総半島に勢力を拡大し、戦国大名化した氏族である。「関東副帥」(関東管領の異称)もしくは「関東副将軍」を自称した。

安房里見氏初代・里見義実は、結城合戦で討死した里見家基の子息とされる人物で、安房国に移り安西氏を追放して領主となったとされる(里見義実の安房入国伝説)[11]。しかし、義実の出自や安房入国の経緯についての詳細は不明である。同時代史料で確認ができないことから、安房里見氏の系譜上で初代とされる義実、2代とされる成義を架空の人物とする説もある。天文の内訌の経緯や第二次国府台合戦の状況など、江戸時代に記された軍記物の記載を土台としていた従来説は、近年の史料発掘と研究の進展にしたがって大きな疑義が示されており、再検討が行われている[注釈 3]

歴史

戦国初期の安房里見氏

同時代の文書で確認できる最初の安房里見家当主は、3代目とされる里見義通である。永正5年(1508年9月25日に安房国一宮鶴谷八幡宮に納められた棟札には「鎮守府将軍源朝臣政氏(古河公方足利政氏)」の名とともに「副帥源義通(里見義通)」の名が記されている。これは里見義通の実在性と安房支配の確立を示す明証であると考えられている。その後の古河公方家の内紛に際しては、小弓公方足利義明を奉じ、上総下総相模へたびたび侵入し、後北条氏をはじめとする反小弓公方派の大名国人と争う。大永6年(1526年)11月26日には、里見氏の軍勢(4代当主里見義豊の後見人であった叔父の里見実堯の軍勢とされているが、当主義豊本人とする説もある)が三浦郡鎌倉郡へ侵入し、鶴岡八幡宮を焼き、玉縄城下で北条方と戦っているが、これも小弓公方の意向に従ったものであるとされている(鶴岡八幡宮の戦い[12]

天文2年(1533年7月27日里見義豊が叔父の里見実堯を討つが、翌年4月6日には実堯の実子の里見義堯が、後北条氏の与力を得て、里見義豊の籠もる稲村城を落し、義豊を自害に追い込み家督を継いだ。この一連の内紛を天文の内訌(稲村の変)と呼ぶ。天文の内訌については、若年の義豊が無思慮に後見人である叔父を排除したことがきっかけであると描かれてきたが、近年の史料発掘の結果として義豊はすでに壮年を迎えており、庶流である里見実堯・義堯父子による宗家に対する下克上の一環であったとの見方が強まっている。このため、義豊以前を「前期里見氏」、義堯以後を「後期里見氏」と呼んで区別する研究家もいる[13][要ページ番号]

また天文の内訌に関連し、「後期里見氏」がその正当性を主張するために「前期里見氏」に関する記録を改変した疑いも持たれている。義豊が若年の当主とされた点や、第2代当主「里見成義」の実在が疑われる点などがそれであり、義豊以前の里見氏の記録が異常に少ないことも「後期里見氏」による史料の隠滅に関係していると言われている。また、「前期里見氏」の一族(義通または義豊の子孫)と推定される「源民部太輔」という人物が安房国白浜城にいたことも確認されている[14][15][16]

天文の内訌以後

天文の内訌において後北条氏と結び第5代当主となった里見義堯であったが、その後は後北条氏と手を切り、再び小弓公方方につく。その後は後北条氏や上総武田氏とたびたび干戈を交えた。里見氏は、天文7年(1538年)の第一次国府台合戦における大敗、後北条氏による安房攻めなどでたびたび苦境に陥ったが、越後上杉氏と同盟を組むことにより切り抜け、上総に勢力を伸張した。

里見義堯義弘の親子は、永禄6年(1563年)および永禄7年(1564年)の第二次国府台合戦で後北条氏に敗北を喫するが、永禄10年(1567年)の三船山合戦で北条氏を破り、上総での勢力圏を確固たるものにした。後北条氏が上杉氏と連携すると、これに対抗して義弘は甲斐の武田氏と同盟を組み(甲房同盟)、着々と勢力を拡大。下総南部にも影響を及ぼすようになり、最盛期を迎えた。だが、天正2年(1574年)に義堯が没した頃より北条氏の巻き返しが発生し、天正5年(1577年)、里見義弘はたびたび交戦した北条氏政と和睦(房相一和)して下総から撤退し、以後領国経営に専念する。

義弘が天正6年(1578年)に没すると、嫡子梅王丸と弟義頼(義弘の庶子とも)との間で家督争いが発生し、また上総国人の離反などにより一時家勢は衰えた。しかし家督争いを制して当主となった里見義頼豊臣秀吉に接近し、安房・上総全域と下総南部の安堵を得ることに成功する。

館山藩の成立と改易

義頼の跡を継いだ里見義康は、小田原征伐に参陣するも、惣無事令違反を犯したために秀吉の怒りを買った。これにより上総・下総は没収され、安房一国のみが安堵された。このとき徳川家康がとりなしたことにより、以降里見氏は徳川氏よしみを通じるようになる[17]

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い後、論功行賞によって常陸鹿島領3万石が加増され、館山藩は都合12万2000石の大名となった。また、義康の弟の里見忠重上野板鼻1万石の藩主に任じられた[18][要ページ番号]。だが、慶長18年(1613年)に里見忠重が突如改易処分となり、翌慶長19年(1614年)には宗家の里見忠義しゅうとである大久保忠隣失脚に連座して安房を没収され、鹿島の代替地として伯耆倉吉3万石に転封となった。しかし実際は、彼には100人扶持ほどの糧米しか与えられておらず、配流と同じ扱いだった。そして元和8年(1622年)、忠義が病死すると、跡継ぎがいないとして改易された。

安房里見氏の末裔

実際には、忠義には正室に2人の女子がいたほか、側室に3人の男子がいたといわれている。

忠義の子であるとされている里見利輝は、もと家臣の印東氏に育てられたという。子孫は越前鯖江藩間部氏に仕えた。他の子も子孫を残しており、それぞれ150俵取りの下級旗本や他家に仕官したという[19]

忠義の叔父である里見忠重(元板鼻藩主)は改易後、酒井家に預けられ、子孫は出羽庄内藩の家臣として仕えている。

また、里見義堯の五男に里見義政がおり、その五世の孫里見義冬が常陸水戸藩士となっている。

昭和前期の実業家・社会教育家である里見純吉(大丸第2代社長、千葉県出身)も、安房里見氏の一族である。その祖は江戸期に遠江掛川藩(太田氏)に仕えていたが、明治維新期の藩主転封(上総国松尾藩)によって房総に戻った。

安房里見氏・歴代当主

  1. 里見義実
  2. 里見成義
  3. 里見義通
    里見実堯[注釈 4]
  4. 里見義豊
  5. 里見義堯
  6. 里見義弘
    里見義重[注釈 5]
  7. 里見義頼
  8. 里見義康
  9. 里見忠義

主要な家臣

安房里見氏の主要な家臣として正木氏がいる。

御一門衆
  • 岡本通輔
  • 正木義俊
正木氏
  • 正木頼時
  • 正木道俊
  • 正木頼定
その他
  • 安西勝峯
  • 安西景峯
  • 安西景綱
  • 安西景茂
  • 安西実元
  • 安西清勝
  • 真田三河守
  • 真田信濃
  • 真田権之助
  • 加藤信景
  • 多賀高明
  • 多賀高方
  • 鑓田勝定
  • 府馬持時
  • 烏山時貞
  • 上野助国
  • 竜崎弥七郎
  • 竜崎六郎
  • 加藤信景
  • 加藤弘景

など

備考

曲亭馬琴の『南総里見八犬伝』は、安房里見氏の初期の時期を設定年代としている[21]。馬琴の構想は、結城合戦に敗れ安房に落ちのびて子の義成(成義)とともに10世代に及ぶ房総二国の支配の基礎を打ち立てた義実を歴史から取り上げ「仁君」とし、その仁政の根拠を八犬士という虚構によって裏づけようとしたものと捉えることができる[22]


注釈

  1. ^ 里見村 (群馬県)、現・群馬県高崎市上里見町、中里見町、下里見町。郷見神社の所在地。
  2. ^ 詳しくは桐生親綱を参照。
  3. ^ (滝川 2014, §. 房総里見氏論―研究史の整理を中心に)に研究史が整理されている。
  4. ^ 本来実堯は甥である義豊の後見人とされており、「里見氏九代」とする場合、歴代当主には含まない。また、近年では当主・後見人であったとする記録も後世の創作とされている[20]
  5. ^ 義弘の嫡男。近年では正式な里見氏当主であったとする説が有力である[要出典]

出典

  1. ^ a b c d e f 太田 1934, p. 2633.
  2. ^ a b 大野 1933, p. 7.
  3. ^ 大野 1933, p. 491.
  4. ^ 大野 1933, p. 20.
  5. ^ 峰岸 1997, p. [要ページ番号].
  6. ^ 峰岸 1998, p. [要ページ番号].
  7. ^ 滝川 2007, p. [要ページ番号].
  8. ^ 毛呂 1910, pp. 94–95.
  9. ^ 太田 1934, p. 2634.
  10. ^ 『上野国志』仁田山旧塁条[8][9]
  11. ^ 太田 1934, pp. 2635–2636.
  12. ^ 大野 1933, p. 123.
  13. ^ 滝川 1992.
  14. ^ 早川 1970, p. [要ページ番号].
  15. ^ 佐藤 1997, p. [要ページ番号].
  16. ^ 千葉県史料研究財団 2007, pp. 843–844, §. 前期里見氏から後期里見氏へ.
  17. ^ 市村 1994, p. [要ページ番号].
  18. ^ 滝川 1996.
  19. ^ 千野原 2001, pp. 137–140.
  20. ^ 滝川 1992, p. [要ページ番号].
  21. ^ kotobank-南総里見八犬伝, §. あらすじ.
  22. ^ 石川秀巳 (1998), “『南総里見八犬伝』の史伝的展開(上)”, 国際文化研究科論集 6: 188-175, https://hdl.handle.net/10097/34468 2019年1月16日閲覧。 
  23. ^ 太田 1934, p. 2641.
  24. ^ 峰岸 1997.
  25. ^ 峰岸 1998.
  26. ^ 滝川 2007.
  27. ^ a b c 太田 1934, p. 2640.
  28. ^ kotobank-里見元勝.
  29. ^ kotobank-里見重勝.
  30. ^ 成田市企画政策部広報課 2002, p. 2.


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