里見氏 美濃里見氏

里見氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/20 03:16 UTC 版)

美濃里見氏

美濃里見氏(みのさとみし)は、里見義成の末子・義直が承久の乱後に美濃国円教寺の地頭となり、同地に移住したことに始まる(『尊卑分脈[23])。

南北朝時代、里見義宗は北朝方について所領を得たが、観応の擾乱足利直義に味方し没落した。

安房里見氏初代・里見義実の出自については、美濃里見氏の系統とする関連付けの説もある[24][要ページ番号] [25][要ページ番号][26][要ページ番号]

出羽里見氏

出羽里見氏(でわさとみし)は、上記の里見義直を初代とする家系である。子孫が出羽国成生庄(現:山形県天童市)を拠点に勢力を扶植したが、出羽への移住の経緯などははっきりしない。

天童氏

南北朝時代、成生庄を拠点とした出羽里見家の第5代当主里見義景は子がなく、同じ源義国の家系である足利氏の一門斯波家兼の三男・義宗を養子とした。里見義宗は家督を継ぐと天童氏と称した。義宗の後には、斯波氏の支族である最上氏から最上直家の子・頼直が入っている(頼直は斯波家兼の二男である最上兼頼の孫で、義宗の大甥にあたる)。新田系の家系ながら足利系の血をひくこととなった天童氏は、里見氏の一門を家臣団として編成して勢力を拡大するとともに、上山氏・東根氏・鷹巣氏という庶流を領内各地に移住させて支配権を確立していった。

南北朝時代から室町時代にかけて、出羽国南部では最上氏が国人を統合し支配圏を固めており、一族が養子入りした天童氏に対しても従属化を求めるようになる。しかし、天童氏は斯波氏から養子をとっただけで家系は新田氏の一門であることから一定の独立を維持してきた。天童氏は延沢・飯田・尾花沢・楯岡・長瀞・六田・成生家らとともに最上八楯を形成し、最上氏や出羽に侵攻をたくらむ伊達氏と対抗していった。

天正5年(1577年)、最上義光は天童氏第16代当主天童頼貞との講和を結び、頼貞の娘(天童御前)を側室に迎えたが、その後も最上氏と天童氏一族や最上八楯の争いは続いた。天正12年(1584年)、第17代当主天童頼澄のときに天童城は落城。天童氏・出羽里見氏の一門や家臣団は最上家に吸収され、最上家の勢力拡大に貢献してゆくことになる。

最上家に仕えた里見氏の人物として、里見民部がいる[27]上山城上山満兼(里見満兼)の一族で重臣であった民部は、天正10年(1582年)に最上方に転じ、主君を討って上山城主となった。民部は義光の子・最上義康讒言ざんげんしてお家騒動(最上騒動)の一因をつくり、粛清されたという。

仙台藩士里見氏

天童頼澄は伊達政宗を頼って逃れ、天童氏は仙台藩重臣として名跡を残している。

天正10年(1582年)に里見民部が主君の上山城主上山満兼を討った際、民部は実兄の里見内蔵助[27]をともに殺害している。里見内蔵助の子が里見元勝で[27]、元勝はのちに叔父の一族の多くを討って仙台藩に仕えた[28]。元勝の子・里見重勝は紀州藩に出仕した後仙台藩に仕えた[29]

水戸藩士里見氏

出羽里見氏の傍流は、水戸藩に仕えた。

江戸時代初期、最上家(山形藩)は最上家親の代に発生したお家騒動最上騒動)によって、江戸幕府の命により改易された。最上家臣であった里見義親は加賀藩主・松平筑前守に召抱えられたが、かつての主筋の山野辺義忠(最上家親の実弟)が水戸藩に仕官したのに伴い、加賀藩を辞して自らも水戸藩に再仕官することとなった。

この義親の子孫に幕末の志士・里見四郎左衛門親長がいる。親長は戸田三衛門忠之の娘と婚姻し、嫡男・里見親賢が生まれる。親長・親賢親子は、縁戚である水戸藩家老戸田忠太夫安島帯刀兄弟とも関係が深く、尊皇攘夷に邁進、天狗党の乱にて諸生党の攻撃を受けて討ち死にしている。

このほか、水戸藩に仕えた里見氏には、前述の安房里見氏の傍流(里見義堯の五男の系統)がある。

支流

天童氏 - 出羽国の有力国人。足利氏系の斯波家兼の三男天童義宗(里見義景の養子)が家祖)


注釈

  1. ^ 里見村 (群馬県)、現・群馬県高崎市上里見町、中里見町、下里見町。郷見神社の所在地。
  2. ^ 詳しくは桐生親綱を参照。
  3. ^ (滝川 2014, §. 房総里見氏論―研究史の整理を中心に)に研究史が整理されている。
  4. ^ 本来実堯は甥である義豊の後見人とされており、「里見氏九代」とする場合、歴代当主には含まない。また、近年では当主・後見人であったとする記録も後世の創作とされている[20]
  5. ^ 義弘の嫡男。近年では正式な里見氏当主であったとする説が有力である[要出典]

出典

  1. ^ a b c d e f 太田 1934, p. 2633.
  2. ^ a b 大野 1933, p. 7.
  3. ^ 大野 1933, p. 491.
  4. ^ 大野 1933, p. 20.
  5. ^ 峰岸 1997, p. [要ページ番号].
  6. ^ 峰岸 1998, p. [要ページ番号].
  7. ^ 滝川 2007, p. [要ページ番号].
  8. ^ 毛呂 1910, pp. 94–95.
  9. ^ 太田 1934, p. 2634.
  10. ^ 『上野国志』仁田山旧塁条[8][9]
  11. ^ 太田 1934, pp. 2635–2636.
  12. ^ 大野 1933, p. 123.
  13. ^ 滝川 1992.
  14. ^ 早川 1970, p. [要ページ番号].
  15. ^ 佐藤 1997, p. [要ページ番号].
  16. ^ 千葉県史料研究財団 2007, pp. 843–844, §. 前期里見氏から後期里見氏へ.
  17. ^ 市村 1994, p. [要ページ番号].
  18. ^ 滝川 1996.
  19. ^ 千野原 2001, pp. 137–140.
  20. ^ 滝川 1992, p. [要ページ番号].
  21. ^ kotobank-南総里見八犬伝, §. あらすじ.
  22. ^ 石川秀巳 (1998), “『南総里見八犬伝』の史伝的展開(上)”, 国際文化研究科論集 6: 188-175, https://hdl.handle.net/10097/34468 2019年1月16日閲覧。 
  23. ^ 太田 1934, p. 2641.
  24. ^ 峰岸 1997.
  25. ^ 峰岸 1998.
  26. ^ 滝川 2007.
  27. ^ a b c 太田 1934, p. 2640.
  28. ^ kotobank-里見元勝.
  29. ^ kotobank-里見重勝.
  30. ^ 成田市企画政策部広報課 2002, p. 2.


「里見氏」の続きの解説一覧




固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「里見氏」の関連用語

里見氏のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



里見氏のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの里見氏 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS