衛藤征士郎 衛藤征士郎の概要

衛藤征士郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/27 23:23 UTC 版)

衛藤 征士郎
えとう せいしろう
2001年2月26日、アメリカ合衆国国防総省本庁舎にて
生年月日 (1941-04-29) 1941年4月29日(82歳)
出生地 日本統治下朝鮮 全羅南道康津
出身校 早稲田大学第一政治経済学部卒業
早稲田大学大学院政治学研究科
国際政治専修修士課程修了
所属政党無所属→)
自由民主党宮澤派河野派安倍派→無派閥)
称号 政治学修士(早稲田大学・1973年
公式サイト 衆議院議員 衛藤征士郎 OFFICIAL WEBSITE

在任期間 2009年9月16日 - 2012年11月16日
衆議院議長 横路孝弘

第57代 防衛庁長官
内閣 村山改造内閣
在任期間 1995年8月8日 - 1996年1月11日

選挙区旧大分1区→)
大分2区→)
比例九州ブロック→)
大分2区
当選回数 13回
在任期間 1983年12月18日 - 現職

選挙区 大分県選挙区
当選回数 1回
在任期間 1977年7月11日 - 1983年7月9日

当選回数 2回
在任期間 1971年 - 1977年
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衆議院副議長(第64代)、防衛庁長官第57代)、参議院議員(1期)、大分県玖珠町(2期)[1]「日本・スイス友好議員連盟」会長、「日本・スウェーデン友好議員連盟」会長、「日本カナダ友好議員連盟」会長、「日本パナマ友好議員連盟」会長、「日朝国交正常化推進議員連盟」会長、「日韓議員連盟」会長代行、日華議員懇談会顧問など友好議員連盟会長職多数を歴任[2][3]し議員外交を通じて外交手腕を発揮。

来歴

2007年9月25日衆議院により内閣総理大臣に指名された福田康夫(中央)を他の議員らとともに祝福

当時父・衛藤貫一は、警察官であり日本の統治下であった朝鮮半島南部全羅南道康津に赴任しており衛藤家の三男として生まれる。1945年9月、終戦により日本へ引き揚げ、郷里である大分県玖珠郡玖珠町で育つ[4]

1948年、玖珠町立日出生小学校に入学するが、1950年に玖珠町立森小学校に転校。1957年大分県立森高等学校に進学するが、5人の男子を育てる両親の苦労を目にし家計を助けるべく農業・炭焼きに従事し学費を捻出すべく同年9月から休学。1959年に高校に復学し、1962年に高校卒業。上京し、早稲田大学第二政治経済学部に入学する。1964年、学内の転部試験に合格し、第一政治経済学部に転部。在学中は吉村正教授に師事し、1966年に卒業。早稲田大学大学院政治学研究科国際政治専修修士課程に進学し、現職の町長時代に政治学修士号を取得する[4]

1970年、大分県玖珠郡玖珠町に戻り、豊後森駅前のビルの一室に「衛藤征士郎政治経済研究所」を開設[要出典]。翌1971年、玖珠町長選挙に立候補し、29歳で初当選。(当時、史上最年少町長)玖珠町長は、1977年まで2期務める。

1977年第11回参議院議員通常選挙に、政治団体「国政に新風を送る会」公認で大分地方区から出馬し、日本社会党から2期目の当選を目指した工藤良平を24,571票差で破り36歳で参議院議員初当選(同期最年少)を果たす。

その後、自民党議員の村上勇(旧大分1区、当選12回)が政界引退を表明したため、1983年第37回衆議院議員総選挙に後継者として立候補し、衆議院旧大分1区(定数4)に転出。保守無所属で出馬し、現職に競り勝ち衆議院議員に初当選(得票数4番目で)した。以後、衆院当選13回。1986年第3次中曽根内閣農林水産政務次官に任命される[4]

1995年村山改造内閣防衛庁長官に任命され、初入閣した。1998年大勇会(河野グループ)の旗揚げに参加。2000年第2次森改造内閣外務総括政務次官に閣僚経験者としては異例の任命をされ、中央省庁再編後は初代外務副大臣を務める。外務副大臣在任中、台湾総統(当時)・李登輝の訪日を実現した[要出典]。なお当時の外務大臣だった河野洋平は、李登輝へのビザ発給に最後まで難色を示していたため、衛藤は河野洋平との関係に終止符を打ち[要出典]、大勇会を退会した。その後、清和政策研究会に入会する[要出典]。2007年12月、朝鮮半島の平和と安定を図るべく「自由民主党朝鮮半島問題小委員会」を自由民主党政務調査会内に立ち上げ、委員長に就任した[要出典]2008年自由民主党総裁選挙では、同じ町村派に所属していた小池百合子の推薦人代表を務めた[5]

2009年第45回衆議院議員総選挙では自民党公認、公明党推薦[6]で出馬。大分2区社会民主党重野安正に4,966票の僅差で敗れるが、重複立候補していた比例九州ブロックで復活。同年9月16日より衆議院副議長に就任(これに伴い自民党会派を離脱)。

2012年11月16日、衆議院解散近いうち解散)により副議長を退任。同年の第46回衆議院議員総選挙では、引退する重野に代わり出馬した社民党新人の吉川元を47,880票差で破り、大分2区で10選(吉川は比例復活)。2013年1月、自由民主党外交・経済連携本部長(党則第83条に基づく総裁直属機関) に起用された[4]2014年第47回衆議院議員総選挙で11選。

2017年12月、自由民主党外交調査会長に就任。

2020年9月、自由民主党憲法改正推進本部長に就任[7]

2021年10月31日の第49回衆議院議員総選挙では、自民党の定める73歳定年制により第47回以降は、小選挙区単独での立候補となっているため厳し戦いとなったが、社会民主党から立憲民主党に移籍した吉川に対し654票差で競り勝ち、13選(吉川も比例当選)。

2012年11月に衆議院副議長を終えた後は、党に戻り永きにわたり外交調査会長として党の要職にあり外交力の強化を図るべく、二国間議連(スイス・カナダ・スウェーデン・オランダ・ハンガリー・パキスタン・北朝鮮・パナマ・パラオ・カメルーン)の会長職を多数を務め、議員外交を通じて友好善隣関係を推進しており議員外交でその調整力を発揮している。

なお2021年10月14日の衆議院解散をもって、1995年の村山改造内閣で環境庁長官を務めた、衛藤の衆議院においての初当選同期でもある大島理森(後の衆議院議長)が引退したことにより、以降衛藤は当時の閣僚(衛藤は、当時防衛庁長官)の中では唯一の国会議員となった。

2024年4月4日、政治資金パーティー収入の裏金問題で1070万円の不記載があったことにより党役職停止6か月の処分を受けた[8]

政策・主張

憲法

日本国憲法改正集団的自衛権の行使を禁じた内閣法制局憲法解釈の見直しに賛成。また憲法改正が必要な一院制の導入を推進している[9]

公務員制度改革

2003年から自由民主党行政改革推進本部長を務め、麻生内閣が「職員の退職管理に関する政令」を改正し国家公務員の「ワタリ」を容認した際には「(行政改革推進本部は)認めない。政令を超えるため、『渡り』を認めない自民党による議員立法を用意する」と主張し、政府に再考を求めた。廃止や見直しを求める自民党行革本部公務員制度改革委員会と政府が対立する可能性があることについて「いいじゃないか。断固としてやる」と述べた。また、自民党を離党した渡辺喜美に対しては「渡辺さんも党の中にいればこういうこと(議員立法)ができる」と指摘した[10]

環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)

TPP交渉参加に関する自民党の公約について、安倍晋三首相が2013年2月28日衆議院予算委員会において、関税に関する項目以外の5項目は「正確には公約ではない。目指すべき政策」と答弁したのに対し、自由民主党幹事長石破茂が3月12日のJA主催の集会で6項目を公約と説明し、翌13日には衛藤が本部長を務める自民党外交・経済連携本部のTPP対策委員会も決議文に六項目の約束が公約であることを明記した。衛藤は決議文について、6項目が順守されない限り「脱退」「批准しない」という趣旨であると述べている[11]

内政の諸政策




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