島崎藤村
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親譲りの憂鬱
島崎藤村は自作で様々に「親譲りの憂鬱」を深刻に表現した。これは、
- 父親と長姉が、狂死した。
- すぐ上の友弥という兄が、母親の過ちによって生を受けた不幸の人間だった。
- 後に姪の島崎こま子と近親相姦を起こしたが、こま子の父である次兄・広助の計らいによって隠蔽された。長兄・秀雄の口から、実は父親も妹と関係があったことを明かされた。
などの事情による。
年譜
- 1872年3月25日(明治5年2月17日) - 筑摩県の馬籠村[注 1]に生まれる。
- 1878年(明治11年) - 神坂小学校に入学。
- 1881年(明治14年) - 兄とともに上京。泰明小学校に通う。
- 1886年(明治19年)
- 3月、泰明小学校を卒業。
- 11月、父・正樹、死去。
- 1887年(明治20年)9月 - 明治学院普通部本科に入学。
- 1888年(明治21年)6月 - 木村熊二から受洗。
- 1891年(明治24年)6月 - 明治学院を卒業。
- 1892年(明治25年)10月 - 明治女学校の教師となる。
- 1893年(明治26年)
- 1894年(明治27年)
- 5月、透谷が自殺。
- 1895年(明治28年)
- 長兄が公文書偽造行使の疑いで下獄。
- 1896年(明治29年)
- 1897年(明治30年) 8月 - 処女詩集『若菜集』を出版。
- 1898年(明治31年) 4月 - 東京音楽学校選科入学。
- 1899年(明治32年)
- 4月 - 小諸義塾に赴任。
- 5月3日 - 秦冬子と結婚[9]。
- 1900年(明治33年)
- 5月 - 長女・みどり、生誕。
- 「千曲川のスケッチ」を書き始める。
- 1902年(明治35年)3月 - 次女・孝子、生誕。
- 1904年(明治37年)4月 - 三女・縫子、生誕。
- 1905年(明治38年)
- 4月 - 上京。
- 5月 - 栄養失調により縫子死去。
- 10月 - 長男・楠男、生誕。
- 1906年(明治39年)
- 3月 - 『破戒』を自費出版。
- 4月 - 栄養失調により孝子が死去。
- 6月 - 栄養失調によりみどりが死去。
- 1907年(明治40年)9月 - 次男・鶏二、生誕。
- 1908年(明治41年)
- 1910年(明治43年)
- 1912年(大正元年) - 有島生馬の装丁で『千曲川のスケッチ』を佐久良書房より出版[10]。
- 1913年(大正2年)4月 - 手伝いに来ていた姪・こま子と過ちを犯しこま子が懐妊したため、関係を絶つためにフランスへ渡る。
- 1916年(大正5年)
- 7月4日 - 帰国。こま子との関係が再燃する。
- 9月 - 早稲田大学講師に就任。
- 1918年(大正7年) - 5月より「新生」を『東京朝日新聞』に連載。
- 1922年(大正11年) - 婦人文芸誌『処女地』を創刊する[11]。
- 1928年(昭和3年) 『処女地』の同人で24歳年少の加藤静子と再婚[12]。
- 1929年(昭和4年) - 4月より「夜明け前」を『中央公論』に連載。
- 1935年(昭和10年) - 日本ペンクラブを結成、初代会長に就任[13]。
- 1936年(昭和11年) - 第14回国際ペンクラブブエノスアイレス大会出席のため、静子夫人と副会長有島生馬を伴い外遊[13]。帰途に欧州に立ち寄る。
- 1937年(昭和12年) - 東京市麹町区下六番町に転居
- 1941年(昭和16年)2月 神奈川県中郡大磯町へ、戦争中の帝都を避けて先に移転していた「弟子」の天明愛吉の近所に住む形で[注 3]、転居。
- 1943年(昭和18年)8月22日 - 大磯町の自宅にて死去、満71歳。戒名は文樹院静屋藤村居士。大磯町の地福寺に埋葬された他、島崎家の菩提寺である馬籠村(現・岐阜県中津川市)の永昌寺に藤村の遺髪と遺爪の一部が納められた墓碑が建てられた。
親族
- 父・島崎正樹(1831年 - 1886年) - 国学者。中山道馬籠宿(長野県筑摩郡馬籠村)の本陣・庄屋・問屋を兼ねる島崎家17代。国学を学び、33歳で平田篤胤没後の門人となる。明治維新後、文明開化の風潮に失望、木曾山林の解放運動に奔走し戸長を免職され、家産を傾ける。東京で教部省考証課雇、岐阜県で飛騨一宮水無神社宮司となるも志を得ず帰郷。巡幸中の明治天皇に憂国の歌を書いた扇を投げて不敬罪に問われるなど挫折を繰り返した末に発狂し、座敷牢内で没した[14]。『夜明け前』の主人公である青山半蔵のモデル。異母妹と関係を持つ[15]。旧名は「重寛」。『夜明け前』で没落した青山家のように、晩年は困窮し、田地を売って金策していたことを伝える土地売買証明書が中津川市の旧商家に残っている[16]。
- 母・ぬい(? - 1896年) - 長男一家と上京後、コレラで死去。
- 兄弟
- 姉・高瀬園子(1855年? - 1921年) - 精神病院で死去。「ある女の生涯」の主人公おげん、「家」のお種のモデル。夫に高瀬薫、養子に高瀬兼喜。「家」のモデルとなった嫁ぎ先の高瀬家は代々、木曽代官山村氏に仕えた士族で、徳川将軍家献上の秘薬「奇応丸」を製造していた。木曽町福島関町にある旧居は高瀬資料館として公開されている。
- 長兄・秀雄(1858年? - 1924年) - 木曽御料林問題に関わる水道鉄管の私文書偽造で入獄後、台湾に渡った。「家」の小泉実のモデル。妻松江との長女のいさ子は西丸帯刀の孫の西丸哲三に嫁ぐ。哲三・いさ子の子に、日本画家の長女・博子(静園)のほか、西丸四方、島崎敏樹、西丸震哉。四方の孫に女優の西丸優子。
- 次兄・広助(1861年? - 1928年) - 母方の妻籠宿本陣に養子入りし、島崎家15代目当主となる。絵の勉強のため上京後、朝鮮へ渡る。後東京へ戻り木曽御料林問題の解消に尽力する。子に外交官・田中文一郎に嫁いだ長女の久子、次女は島崎こま子。長男の重樹は夭逝し、次男の正二郎(1913年 - 2001年)は妻籠宿本陣島崎家16代目となる。
- 三兄・友弥(1868年? - 1911年) - ぬいと稲葉屋主人との間にできた不義の子とされる[15]。広助とともに上京後、京橋の木綿問屋に奉公するが長続きせず、横浜で奔放な生活を送り、悪性の毒により片足が不自由となる。国学を学び、佐佐木信綱のもとで和歌を学ぶ。「家」に登場。
- 前妻・秦冬子(1878年 - 1910年) - 函館の網問屋・秦慶治の三女で明治女学校卒業。1899年に結婚し、7人の子をもうける。関連書として『冬の家―島崎藤村夫人・冬子』(森本貞子、文藝春秋、1987年)、『お冬 わたしの 藤村の妻島崎冬子』(松井千枝)などがある。・
- 子
- 長女・みどり(1900年 - 1906年) - 夭折。
- 次女・孝子(1902年 - 1906年) - 夭折。
- 三女・縫子(1904年 - 1905年) - 夭折。
- 長男・楠雄(1905年 - 1981年) - 明治学院中等部中退後、農業に従事し、後に財団法人藤村記念郷初代理事長、藤村記念館顧問となる。
- 次男・鶏二(1907年 - 1944年) - 画家。藤村の秘書を務めた後に戦死。
- 三男・蓊助(1908年 - 1992年) - 画家、共産主義運動家。
- 四女・柳子(1910年 - ) - 長野県南佐久郡臼田町(現・佐久市)の井出五郎に嫁ぐ。
- 庶子(1913年 - ?) - 姪のこま子との子。養子に出され、10歳時に1923年の関東大震災で行方不明。
- 後妻・加藤静子(1896年 - 1973年) - 東京で生まれ、津田英学塾中退後キリスト教に入信、藤村が創刊した『処女地』の編集者となり、1928年に結婚。著書に『藤村の思い出』『藤村 妻への手紙』など。
注釈
- ^ a b c 2005年2月12日までは、長野県木曽郡山口村神坂。越境合併により、岐阜県中津川市馬籠となった。所属県が長野県から岐阜県に変更される事で、藤村の出身県を従来どおり長野県とするか、新たに岐阜県とするか、もしくは新旧両方併記するか、関係者の間で混乱が生じている。
- ^ 旋律(変ロ長調)に歌詞が付されたもので、原曲のハイネの詩の和訳ではなく藤村のオリジナル。ただし初版では楽譜に誤植(3段目の楽譜がひっくり返っている)があるため注意。
- ^ 転居の理由は大磯の左義長を気に入ったとか諸説あったが、参照:黒川鍾信著『高等遊民 天明愛吉 (藤村を師と仰ぎ 御舟を友として)』(筑摩書房、2004年)および黒川鍾信:島崎藤村はなぜ大磯に終の棲家を求めたのか(有隣堂)
出典
- ^ Andmo / アンドモ [@Andmo_info] (2022年4月14日). "第2話に出てきた『#椰子の実』を作詞した #島崎藤村 の玄孫・上田理仁 『#ちむどんどん』 明日4/15(金)第5話に出演致します🌺 理仁は歌っていませんが、ぜひご覧下さい!! #Andmo #上田理仁 #ちむどんどん #朝ドラ #アババ #歴史好き #時代劇に出たい #沖縄 #理仁画伯 #okinawa @asadora_nhk". X(旧Twitter)より2022年5月6日閲覧。
- ^ 長谷川天渓 著、複製版 編『自然主義』日本図書センター〈近代文芸評論叢書 21〉、1992年3月。ISBN 978-4820591504。
- ^ “横浜山手病院について 29. 閑話編:布施家と星家 (3)”. paperzz.com. 2021年8月2日閲覧。 “佐藤スケ / 輔子(1871年8月1日–1895年8月13日)”
- ^ a b 「若き日の藤村 -仙台時代を中心に-」(藤一也 著、本の森 1998年11月23日 発行、ISBN 4-938965-11-9) pp.18-20、pp.263-264
- ^ 「仙台雑詩」(島崎藤村)
- ^ 半澤孝平 (2017年7月22日). “島崎藤村の妻・冬の半生知って 函館奉仕会が27日に朗読会”. 函館新聞 2017年10月14日閲覧。
- ^ “文豪 島崎藤村”. 小諸市 (2013年8月29日). 2017年7月28日閲覧。
- ^ “コトバンク 立川 雲平とは(20世紀日本人名事典)”. 2017年7月28日閲覧。
- ^ 島崎藤村の結婚した日小諸市役所、藤村記念館だより4. 2017年10月05日
- ^ 秀選 名著複刻全集 近代文学館1 復刻版 千曲川のスケッチ. 日本近代文学館. (1984)初版佐久良書房刊の複製である旨が明示されている
- ^ 婦人文芸雑誌『処女地』と島崎藤村. ー大正期の婦人雑誌および婦人運動における『処女地』の位相李志炯]」『日本語と日本文学』 36号 p.1-18, 2003年02月、 筑波大学国語国文学会, doi:10.15068/00139745
- ^ 島崎静子 しまざき しずこコトバンク
- ^ a b 日本ペンクラブ 歴史
- ^ 島崎正樹 しまざき まさきコトバンク
- ^ a b 『島崎藤村の秘密』西丸四方、有信堂、1966
- ^ 「藤村実家 困窮の記録/父が田地売却 証明書見つかる」『読売新聞』夕刊2018年10月6日(社会面)。
- ^ 大磯の邸園めぐり歩き:4.旧島崎藤村邸、鴫立庵
- ^ “島崎藤村旧居跡”. 新宿観光振興協会. 2024年2月15日閲覧。
- ^ “文学碑の散歩道 島崎藤村”. 東京新聞 (2020年11月28日). 2024年2月15日閲覧。
- ^ 映画『家』公式ページ
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