孟子
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孟子の思想
仁義
孔子は仁を説いたが、孟子はこれを発展させて仁義を説いた。仁とは「忠恕」(真心と思いやり)であり、「義とは宜なり」(『中庸』)というように、義とは事物を適切に扱うことである。
王覇
孟子はその時代までにいた全ての君主を「王者」と「覇者」として、それらが行った政治を「王道」と「覇道」として分類した。
孟子によれば、覇者とは武力によって一時的な仁政を行う者であり、そのため大国の武力がなければ覇者となって人民や他国を服従させることはできない。対して王者とは、徳によって本当の仁政を行う者であり、そのため小国であっても人民や他国はその徳を慕って心服するようになる。故に孟子は、覇者を全否定はしないものの、「五覇は三王(夏の禹、殷の天乙、周の文王または武王)の罪人(出来損ない)なり。諸侯は五覇の罪人なり。大夫は今の諸侯の罪人なり」(告子章句下)と述べて当時群雄割拠していた諸侯たちを批判し、古の堯・舜や三王が行ったような「先王の道」(王道政治)に回帰すべきと唱えた。
民本
孟子は領土や軍事力の拡大ではなく、人民の心を得ることによって天下を取ればよいと説いた。王道によって自国の人民だけでなく、他国の人民からも王者と仰がれるようになれば諸侯もこれを侵略することはできないという。
梁の恵王から利益によって国を強くする方法について問われると、孟子は、君主は利益でなく仁義によって国を治めるべきであり、そうすれば小国であっても大国に負けることはないと説いた。孟子によれば、天下を得るためには民を得ればよく、民を得るためにはその心を得ればよい。では民の心を得るための方法は何かといえば、それは民に利するものを与え、民に害するものを押し付けないことである。民は安心した暮らしを求め、人を殺したり殺されたりすることを嫌うため、もし王者が仁政を行えば天下の民は誰も敵対しようとせず、それどころか自分の父母のように仰ぎ慕うようになるという。故に孟子は「仁者敵無し」(梁恵王章句上)と言い、また「天下に敵無き者は天吏(天の使い)なり。然(かくのごと)くにして王たらざる者は、未だ之(これ)有らざるなり」(公孫丑章句上)と言ったのである。
孟子によれば、僅か百里四方の小国の君主でも天下の王者となることができる。覇者の事績について斉の宣王から問われたときも、孟子は、君主は覇道でなく王道を行うべきであり、そうすれば天下の役人は皆王の朝廷に仕えたがり、農夫は皆王の田野を耕したがり、商人は皆王の市場で商売したがり、旅人は皆王の領内を通行したがり、自国の君主を憎む者は皆王のもとへ訴えたがるだろう。そうなれば誰も王を止めることはできない、と答えている。もちろん農夫からは農業税、商人からは商業税、旅人からは通行税を得て国は豊かになり、また人民も生活が保障されてはじめて孝悌忠信を教え込むことができるようになる。孟子の民本思想はその経済思想とも密接に関連している。
しかし、これは当時としては非常に急進的な主張であり、当時の君主たちに孟子の思想が受け入れられない原因となった。孟子は「民を貴しと為し、社稷之(これ)に次ぎ、君を軽しと為す」(盡心章句下)、つまり政治にとって人民が最も大切で、次に社稷(国家の祭神)が来て、君主などは軽いと明言している。あくまで人民あっての君主であり、君主あっての人民ではないという。これは晩年弟子に語った言葉であると考えられているが、各国君主との問答でも、「君を軽しと為す」とは言わないまでも人民を重視する姿勢は孟子に一貫している。絶対の権力者であるはずの君主の地位を社会の一機能を果たす相対的な位置付けで考えるこのような言説は、自分たちの地位を守りたい君主の耳に快いはずがなかったのである。
性善
当時の有名な思想家の一人である告子は、人の行動は川の水が堤防の決壊がいずれの方向でも起こりうるように、原理がなく予測不可能なものである。人の行動がそれぞれの時代において大きく異なるように見えるのも、国の頂点に立つ統治者による影響であり、たまたま文王や武王のような善人が即位したゆえ正義を信じて団結し、たまたま厲王や幽王のような悪人が即位したゆえ道徳を無視して乱暴を働くようになっただけにすぎない。すなわち人間の心には生まれながらして持った共通な性質(本性)なるものは存在しない(あるいは知り得ない)と唱えた。
「水信まことに東西とうざいを分つこと無し。上下を分つこと無からんや。(川の水は堤防を越えて東西に流れることがあっても、地面を括り抜いて地下に流れることはないのではないか)[5]」
孟子はこのように反論した。人の行動は確かに様々であって統一性のある原理がないように見えるが、それらはあくまで立場や周りの影響(外物)による一時的なものにすぎない。人間には「本性」なるものが存在するのである。
井戸に転び堕ちそうになった子供を見て、誰もが思わずに助けようとするのは、子供の父母から財貨を得るためでもなければ、社会で良い名声を得るためでもない。人間は誰しも利他的な行為を良しとする生来の性質(善)を備わっている。かつての聖王であろうと小人であろうと、その本性には本質的な違いはなく、利己的な行為に走るのは天災や人害など外界の脅威(外物)から身を守るために元々の善性を手放せざるを得なくなってしまったゆえである。
そのため孟子は、「大人とは其の赤子の心を失わざる者なり(徳に優れた人というのは赤子のような純粋な心を保ちつづける人である)[2]」、「学問の道は他無し、其の放心を求むるのみ(学問とは他でない、失われてしまった純粋な心を取り戻すのみである[5]」とも主張した。
「性善説」に関する誤解
孟子の対立思想として、荀子の性悪説が挙げられる。しかし、孟子は人間の本性として「四端」があると述べただけであって、それを努力して伸ばさない限り人間は禽獸(社会性を持たない動物)同然の存在だと言ったように、人間を持つ善性を絶対的に肯定していたわけではない。また、それゆえに学問を深め道徳を身につけた君子は人民を指導する資格があるとする。一方、荀子は人間の本性とは無限なる欲望であり、欲望に従順なままでは他人を思いやることも譲り合って争いを避けることもできない。そのため学問や礼儀といった「偽」(こしらえもの、人為の意)を身に付けるようになり、それらの後天的な努力によって公共善に向うことができると主張した。
教育を通じて良き徳を身に付けると説く点では、実に両者とも同じであり、「人間の持つ可能性への信頼」がそれらの思想の根底にある。両者の違いは、孟子が人間の主体的な努力によって社会全体まで統治できるという楽観的な唯心主義であったに対して、荀子は統治者がまず社会に制度を制定して型を作らなければ人間はよくならないという社会システム重視の考えに立ったところにある。前者は後世に朱子学のような主観中心主義への道を開き、後者は荀子の弟子たちによって法家思想へと発展していった。
四端
孟子は人の性が善であることを主張した上、その善性の核心となる四つの心得(四端)の存在を説いた。
「四端」とは「四つの始まり」という意味であり、それぞれ「惻隠」(弱者を同情する心)・「羞悪」(不正や悪を憎む心)・「辞譲」(謙って譲り合う心)・「是非」(正悪を判断する能力)と定義される。この四つの心得を常に遵守することによって、孔子の主張する聖人に備わるべき四つ性質である「四徳」を身につければ、誰しもが統治者に相応しい人材になれると言う。
天命
孟子自身は「革命」という言葉を用いていないものの、その天命説は明らかに後の易姓革命説の原型をなしている。
孟子によれば、舜は天下を天から与えられて天子となったのであり、堯から与えられたのではない。天下を与えられるのは天だけであり、たとえ堯のような天子であっても天命に逆らって天下をやりとりすることはできない。では、その天の意思、天命はどのように示されるのかといえば、それは直接にではなく、民の意思を通して示される。民がある人物を天子と認め、その治世に満足するかどうかによって天命は判断される。
また、殷の湯王が夏の桀王を追放し、周の武王が殷の紂王を征伐したことも、臣下による君主への弑逆には当たらないとした。なぜなら桀紂がいくら天子の家系であったとはいえ、天子が果すべき責務を果たさずに暴政を行ったためであり、すでに統治者としての正当性(天命)がないためである。
天子の位は、かつては代々賢者から賢者へと禅譲されていたが、禹が崩ずると賢者の益でなくその子啓が位を継ぎ、以後今日まで世襲が続いている。これは禹の時代になって徳が衰えたからなのではないか、という弟子の萬章の問いに対し、孟子は明確にこれを否定している。孟子によれば、位を賢者が継ぐか子が継ぐかはすべて天命によるものであり、両者に優劣の差はない。孟子は孔子の言を引いて「唐の虞は禅(ゆず)り、夏后・殷・周は継ぐも、其の義は一なり」(萬章章句上)と述べている。そのため、位を世襲しながら天によって廃されてしまうのは、必ず桀紂のような「残賊」だけだとされる。
この論理は当時の宗教権威を論証に介しているものの、意義と目的という面において2000年後のヨーロッパで提唱された社会契約論と同一であると言える。
- ^ 孟繁驥 (1971年5月1日). “〈孟子其人及其著述〉” (中国語). 《文藝復興》 (中華民國: 中國文化學院) (第17期): 第11頁-第13頁 . "關於孟子生卒年月,各家之說紛紛不一,清閻若璩有孟子生卒年月考亦未有定論。「三遷志」及「孟子世家譜」載,孟子於周烈王四年四月二日生(紀元前三七二年),周赧王二十六年正月十五日卒(紀元前二八九年)。孟子出生到現在已經是二千三百四十二年,較孔子晚了一百七十九年(孔子生於紀元前五五一年)。根據這一時間來覆按,孟子遊梁、遊齊,及其他事跡言論甚多符合,總之有關孟子最原始之傳記史料,厥爲史記「孟子荀卿列傳」,而又語焉不詳,以致諸家考證紛紜迄無定論。"
- ^ a b 『孟子「離婁篇」』
- ^ 『孟子「公孫丑篇」』による
- ^ 『孟子「公孫丑篇」』
- ^ a b 『孟子「告子篇」』
- ^ 孟子松岡正剛の千夜千冊、1567夜、2014年12月25日
- ^ 現代中国語では、「孟子」は「モンズー Mèngzǐ」、『毛詩』は「マオシー Máoshī」と発音するため、混同はない。
- ^ 趙岐『孟子題辭』「是ニ於テ退キテ高弟弟子公孫丑・萬章ノ徒ト、疑ヲ難キ問ニ答ヘシ所ヲ論集シ、又自ラ其ノ法度ノ言ヲ撰ビ、書七篇二百六十一章・三萬四千六百八十五字ヲ著ハス。」
- ^ 小林勝人『孟子』 下、岩波文庫、1972年。に引く武内義雄「孟子について」pp.454-457。
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