北白川 風俗・産業

北白川

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風俗・産業

白川女

白川女(1960年)
時代祭行列での白川女(2012年)

かつては白川女(しらかわめ)と呼ばれる女性の行商人が、洛中で花の行商を行っていた。江戸時代より商業化されたもので、最盛期は明治時代であったとされ[34]、その時期にはほとんどの女性が15歳になると白川女になったともいわれる[35]。現在は時代祭でその出で立ちを確認できる[36]。純白の下着、紺の着物前掛け、頭に手ぬぐい[* 22]手には手甲、足には脚絆草鞋、という出で立ちである[37]。なお、襷(たすき)は年齢によって色分けがされていたという[38]。古くは頭に花を入れた藤蔓製の籠を乗せて行商していたが[* 23]大正時代頃からは、荷車なども用いられるようになった。平安時代三善清行の発案により北白川の女性が京都御苑に花を届けたのが始まりであると伝えられている[17][39][* 24]。花畑では、キクキンセンカなどが栽培されていたほか、山で摘み取った花も販売しており[* 25]、明治以降は若干ながら番茶も販売され[40]お盆正月の飾り物なども取り扱われていたようである[17]。京都盆地の特性上、洛中から北白川への帰り道は登り坂になるため、学業の終わった子供が途中まで母親を迎えに行き、荷車引きを手伝う光景も見られた[35]21世紀初頭の現在では、わずかな老齢者が伝統を受け継いでいるのみとされ[41]、毎年行われていた京都御所への花の献上も1970年(昭和45年)頃に途絶えている[42]。また、白川女は世襲的色合いが強いとされる[43]

花畑は北白川には多く見られ[* 26]、風景の一つとなっていた。以下参考文献[44]からの引用の歌であるが、

  • 春と言えばさえゆく風にたつ波の 花にうずめる白川の里(藤原定家)
  • 百草の花のかげまでうつしつつ 音もかわらぬ白川の水(貫之)

などと詠まれていた。1965年(昭和40年)前後の地図でも、地域内にかなりの花畑が確認できるが[45]昭和に入ってからは、住宅地が増え、花畑が減少したこともあり、北白川だけでは需要を賄い切れず、花市場が開設され、1965年(昭和40年)頃には大部分が他地域よりの購入によって賄われるようになった[46]

京都には、その他にも大原女によるの行商、桂女(かつらめ)による魚の行商、高雄の畑のおば(姥)、なども見られた。大原女と白川女の出で立ちは比較的類似しているが、着物の裾や前掛けの長さの違いなどが明確であるとされる[47]

ちなみに北白川の女性は男勝りの働き者で、昔はかなり乱暴な言葉使いをしていたとされるほか、北白川地域独特の方言も存在した[48]。また、花売り、花市場は旧街道(志賀越道)沿いに多く分布していた[49]

注連縄

北白川は注連縄(しめなわ)の産地としても、明治末期以降、京都では有名であった。お歳暮用の宝船というものは、京都では北白川でしか作られていなかった。主に冬場に、花売りに関わる住民がこの仕事に当たったという[50]。また、北白川小学校ではわら細工教室という科目を行っており、ホームページでその様子が確認できる[31]

白川砂

白川の上流には花崗岩が多く見られ、白川の川砂はその白さの際だつ白川砂として京都の特産品となっており、各地の神社仏閣京都御所天皇陵などに古くから利用されてきた。

白川石

花崗岩そのものである白川石も特産品であり、その品質の評価も高かったとされ、京都の石といえば白川石ともいわれ、鎌倉時代には三大名石の一つにも数えられた[51]。『都名所図解』にも「北白川の里人は石工を業(なりわい)として、常に山に入て石を切出し…」との記述が見られ、『東北歴覧之記』では「農業の暇、石工を事とし、入山して石を採り、市中で売る。俗に白川石と称す」とされている[* 27]。白川灯籠手水鉢(ちょうずばち)などの加工品も名物であった。

屋号

屋号としては鍛冶屋、桶屋、滝元屋など、家業や立地を元とした一般的といい得るものが有ったが、先祖の名前に「さん」を付けたものを、代々呼び継ぐ風習もあった。一例としては「善七さん」、「卯兵衛さん」などがある。この風習は、少なくとも1960年(昭和35年)前後には、まだ存続していたとの資料がある。その他にも「どてら」「大男」などの屋号もあった[52]。ちなみに、この地域では、内田、西村、倉貫、中山などの姓が多く見られる[53]

水車

かつては白川沿いに多数の水車が見られ、各種の製粉精米金粉制作や伸銅など、様々に利用され、水車産業に従事する労働者として福井県石川県から移り住んだ者が、そのまま北白川に住みついた例も多く見られた[54]。初めての水車は1698年元禄11年)に設置されたとされ、1907年(明治40年)頃には38軒の水車が有ったとされるが、琵琶湖疏水による水力発電の影響などでその数は減少し、1958年(昭和33年)頃にはさらに7軒にまで減少、その上比叡平の宅地開発による土砂の流入などが止めとなり、1968年(昭和43年)8月に、最後に残った水車が廃止された。なお、京都市南区の大手伸銅会社である三谷伸銅も北白川が発祥地の一つであり、その水車は「三谷車」と呼ばれたほか、かつては北白川小学校も固有の資産として2基の水車を所有しており、その収入が運営資金に充てられていた[55]

その他

  • 1912年(大正元年)の『校下実際調 本村の長所と欠点並に之が教育上注意すべき要件』という、北白川小学校での教育方針に関する文書では、白川村の住民は非常に勤勉で人情深く、石工における収益も赫々足るものがあるが、反面、純粋すぎるがゆえに都会からの破廉恥な文化侵略に抗し得ない可能性がある点が指摘され、石工にまつわる実用的な教育に力を入れつつ美点を伸ばしていく様な教育を心がけるべし、としている。また、北白川は都の発展の利益を享受するに至極有利な地勢を得ており、今後は農業ではなく工業に力を注いでいくべきだと指摘している[56]
  • かつては久保田町の北白川サービスセンター、隣接する浄土寺東田町の丸銀市場といった屋内の市場が住民の食の多くを賄っていた(1974年(昭和49年)頃に行われたアンケートでは、両市場合計で60%との資料がある)。ただし、2010年(平成22年)現在では、どちらの市場も、スーパーマーケットとなっている[57]

  1. ^ 『新撰京都名所圖會』によれば、八坂神社祭神である牛頭天王が、かつてしばしば立ち寄った山であり、この神が胡瓜を好んだことから。平安時代にはすでにこの名称が用いられていたとされる。本来は近隣の別の山(旧瓜生山とも)を指していたが、本来の瓜生山が「将軍山」と呼ばれるようになったため、本来の瓜生山とは別の山である。なお、一乗寺の狸谷不動尊も現在の瓜生山(洛中から見れば瓜生山の裏側)にある。現在瓜生山山頂の住所は隣接する一乗寺であるが、本山の歴史的経緯から、この北白川の項で述べるものである。なお、将軍地蔵はもともとこの山にあったことから、現地では「元将軍」という呼び名もある(史跡探訪 東山三十六峰)。
  2. ^ 標高130m程度。将軍山、地域では丸山とも。北白川幼稚園が設けられているほか、2010年11月頃まで将軍地蔵安置されていた場所でもある。
  3. ^ 北白川山の一部がすべり山と呼ばれる[要出典](2010年6月現在、北白川幼稚園のホームページに記述が有る)、現在の瓜生山は元々は丸山である(『新撰京都名所圖會』)、かつては北白川地域の山々の総称として白川山という名称が使われていた(『雍州府志』のほか、『古今都細見之図』、『京都指掌図 文久改正』などの古地図で確認可能)、など、地域の山々の呼称は複雑である。将軍地蔵の移設がこの混乱の大きな原因といわれる。上記のほか『東山三十六峰を歩く』によれば、現地住民でさえも山名に対して混乱が見られ、また、各種文献に当たっても判然としない場合がある。
  4. ^ 『新撰京都名所圖會』によれば、茶山の由来は「茶屋四郎次郎」という豪商の別荘が有ったことから。彼の本名が「中島情延」であることから、情延山とも呼ぶ。元々は織田信長とその家臣に受け継がれていた地域である。すでにこの一体が茶山と呼ばれていたことは現地住民の間でも忘れ去られつつあり、茶山といえば(かなり距離のある)叡山電鉄茶山駅の辺りを指すとの意識が強いという。また近辺には「滅苦寺跡」の石碑が、麓にある禅法寺の境内には「茶山」の文字の確認できる石碑がある(『東山三十六峰を歩く』 p.63 -)。
  5. ^ ただし、五山送り火の運営・作業は北白川(かつての白川村)ではなく、浄土寺(かつての浄土寺村)が受け持っている。また、如意ヶ嶽と大文字山は明治以降、正式には別の山であるが、『こども風土記』によれば、現地住民は同一視する場合がある。古くは正式には如意ヶ嶽(もしくは如意嶽、如意ヶ岳、如意山)であり、大文字山は通称であった。また、古くはこの近辺の山々を総じて如意ヶ嶽と呼んだ(『雍州府志』によれば、東山の頂を如意ヶ嶽と呼んだとある)。かつては如意寺と呼ばれる寺も存在したと伝えられる。なお、如意ヶ嶽の山頂はかなり滋賀県寄りであり、京都市内から視認することはできない(『東山三十六峰を歩く』 p.86)。また、東山三十六峰では如意ヶ嶽と大文字山は区別されていないが、そもそも東山三十六峰の定義自体が不確かなものである点に注意を要す(『東山三十六峰を歩く』 p.20)。
  6. ^ ちなみに『こども風土記』によれば、1955年(昭和30年)の国勢調査では、3426世帯、12962人。『北白川百年の変遷』によれば、1970年(昭和45年)で6224世帯、14452人。
  7. ^ 345戸中、専業農家はわずか15戸と、農業の比率は高くない。また、1888年(明治21年)の愛宕郡白川村役場調べでは、305戸1488人中、農業70戸、工業74戸(内、石工66戸)、商業40戸、雑業108戸(主に労働者)、その他5戸、不就業8戸となっている。この資料では専業・兼業の扱いは不明である。
  8. ^ 1907年に鐘紡の子会社が白川村小倉地区の土地を取得したが不況により施設の建設は行われず、1925年に日本土地商事株式会社により開発・分譲が開始されたのが、北白川の住宅地開発の嚆矢となった。その後暫時開発は進み、1940年には京都市による区画整理がなされる(『京・まちづくり史』 pp.191-195)。
  9. ^ 『北白川と嵯峨野』では、あるアパートでは戦前までは学生が入居者の大部分を占めていたが、戦後は大部分がサラリーマンになったとの証言が紹介されている。
  10. ^ 『京都盆地の災害地名』によれば、近年では1941年6月に氾濫し下流に隣接する浄土寺町石橋町で決壊、1959年8月水害では東西は白川通以西から叡電沿線、南北は北大路通から御影通までが浸水。1967年7月には台風7号と梅雨前線の影響で丸山町で山崩れ。
  11. ^ 流れ橋の橋脚のように、堰堤の基本構造自体に致命的な損傷を被らないための策。
  12. ^ ちなみに、水車による伸銅産業の排水による公害で、白川に棲む生物が激減したとの説が、『こども風土記』 p.219で述べられているが、『120周年記念誌』 p.15によれば、最後の水車が廃止されてから30年近く経った1994年(平成6年)に至っても、やはり魚などはほとんど見られないようである。この部分を執筆した氏子会会長は、後述するラジウムが影響している可能性を示している。
  13. ^ 『東北歴覧之記』では1681年延宝9年/天和元年)の時点で「何れを白河の瀑と云えることを知れず」と、場所が分からなくなっている(1686年貞享3年)の『雍州府志』も同様である。なお、現代文訳はウィキペディア編集者による)。
  14. ^ 『新撰京都名所圖會 巻1 東山の部』 p.141によれば、寛政年間の作であり、高さ1.8メートル程度、かたわらには大日如来を従えている。
  15. ^ 泉質としては20度の放射能泉で、無味、無臭、無色。神経痛、筋肉痛、関節痛、胃腸病、腰痛、貧血などに効果があるとされている。
  16. ^ ただし、路線は今出川通以南までであり、駅は地域の南端のみである。詳しくは京都市電#路線データの図を参照。
  17. ^ 『東北歴覧之記』(1681年(延宝9年/天和元年))では、古くは志賀の山越、現在は山中越という、とされている。『中古京師内外地図』[1]でその記述を確認できる。
  18. ^ 1575年天正3年)『史料京都の歴史 8』 p.310より
  19. ^ 3系統は御蔭通を通る便と、一つ北の東鞍馬口通を大回りし、京都造形芸術大学にアクセスできる便が存在する。また、仕伏町の志賀越道と御蔭通の交差点で終点、Uターンして折り返し運転となっている。
  20. ^ 京都駅前 - 出町柳 - 銀閣寺道 - 比叡山頂
  21. ^ 三条京阪 - 百万遍 - 銀閣寺道 - 北白川仕伏町 - 比叡平
  22. ^ 血痕を模した意匠とされる。すでに怪我をしているので、これ以上の危険はご容赦ください、の意。
  23. ^ 『京都民俗誌』によれば、頭より高く掲げることで、お上に渡す花に自らの息をかけない、表敬の意も有った。
  24. ^ 『京都故事物語』によれば、白川女の装束もこの当時のものを受け継いでいるかたちであるという。
  25. ^ 『北白川と嵯峨野』によれば、山向こうに当たる滋賀県でも、白川女に卸すために菊などの栽培がなされていた。ちなみに、p.61には、菊と小菊が合計5万本で、全出荷量の7割とされている。このことから、全出荷量は7万本程度と推察されるが、いずれにしても1965年(昭和40年)の資料である。他には菜種、クラジオラス、ナデシコなど、様々な花を取り扱っていた(pp.61-64)
  26. ^ ただし花畑ばかりというわけではなく、北白川には水田も多数存在していたほか、牧場なども見られている。
  27. ^ 原文からの現代文訳はウィキペディア編集者による。
  28. ^ ちなみに、現在地に移転するまでの2つの跡地は、いずれも白川の河畔という立地である。
  29. ^ ピークは1958年(昭和33年)前後と思われ、1650人の在校生がいたが、1974年(昭和49年)時点で900人、1993年(平成5年)時点で454人、と、減少の一途を辿っている。かつて日本バプテスト病院内に設けられていた養育学級も既に廃止された(『北白川百年の変遷』、『120周年記念誌』 p.4、p.44、『こども風土記』 p.313)。
  30. ^ 宮号が旧門跡と区別しがたいとの理由により、照高院の所在する北白川を新たな宮号とした。
  31. ^ 『史料京都の歴史 8』では、「岩倉幡枝窯跡群」もしくは「ケシ山窯跡群」からも同様の瓦が発掘され、北白川廃寺に用いられたことが確実視されている (p.24)。
  32. ^ 地元住民の間では、以前に存在したといわれる「めっく寺」の跡ではないかという説もある。なお、本来は「滅苦寺」といい、将軍山城の北西に存在していたとされるが、地元民は「目抉寺」と勘違いしており、その勘違いを真に受けた人物が、六波羅密のために自らの目を抉ったという逸話が「雍州府志」で紹介されている(『史料京都の歴史 8』 p.323)。ただし『東山三十六峰を歩く』で紹介されている『京都府愛宕郡村誌』内「白川村名所旧跡」によると、本来は「滅苦寺」でさえなく「苦滅寺」である。この資料によればこの寺は地域の菩提寺とされる。
  33. ^ 『こども風土記』 p.33、および『先史時代の北白川』 p.3によれば、10月17日、農学部北部構内を散歩していた濱田が、石斧の破片を偶然に拾ったのがきっかけとのことである。
  34. ^ この地域は堅果類(ドングリの類)が多く、居住に向いていたとされる。また、琵琶湖畔の遺跡との関連性も指摘されている。
  35. ^ 『先史時代の北白川』においては、遺跡の密集度、京都大学近辺という立地から研究者の興味を引きやすかったという要因も指摘されている。
  36. ^ 『史料京都の歴史 8』では、「白川扇状地上のほとんどに遺跡が存在する」とまでいわれている。
  37. ^ 享保9年4月8日(グレゴリオ暦1724年4月30日)に、焼失212件、焼け残ったのは52件に過ぎない大火が記録されているが、江戸時代末期ともいい切り兼ねる年代であり、時期を変えて複数の大火が有った可能性もあり、現在の所、どの時期の大火により首が落ちたのかを明確に示す史料は(ウィキペディア編集者には)見つかっていない。
  38. ^ そのためか、「首切れ地蔵」との異名もある。
  39. ^ 『京都大事典』によれば鎌倉中期。
  40. ^ この石仏が夜な夜なに動き出すとの噂を聞きつけた秀吉が聚楽第に移設してみたところ、「白河へ帰りたい」と鳴動したので、仕方なく元の場所に安置し直した、との話。地元での言い伝えの他、『花洛名勝図会』、『山州名跡志』などで記述が見られる。
  41. ^ 『愛郷』51号によれば、現在の狸谷不動尊の奥の院あたり。
  42. ^ 従前の場所については地図に掲載されている場合があり、参考文献に挙げた『街の達人 京都 大津 便利情報地図』(2011) などでも明記されている。北白川幼稚園の東隣辺りである。
  43. ^ 移設されたといっても数十メートル程度である。
  1. ^ 『史料京都の歴史 8』 p.16
  2. ^ a b c 社団法人京都市埋蔵文化財研究所のホームページ 「小倉町別当町遺跡発掘調査報告書(第6次調査)」[2](pdfファイル)、『日本の古代遺跡 京都1』 p.207、『先史時代の北白川』 p.14
  3. ^ 参考文献の各所において、水はけの良い、居住にも農業にも適した地質であるとの記述が見られる。なお、北白川の北方の修学院地域には音羽川、一乗寺川によって形成された扇状地と、やはり遺跡が存在している。
  4. ^ 『新撰京都名所図会 巻の1 東山の部』、『東山三十六峰記』、『雍州府志』山川門 愛宕の郡(白川山、白川、瓜生山)、『東山三十六峰を歩く』、『こども風土記』 p.15、p.293
  5. ^ 『こども風土記』 p.304
  6. ^ 京都市情報館 「京都市の統計情報」 [3]推計人口・人口動態/直近の国勢調査以降の推計結果 平成22年4月のxlsファイル
  7. ^ a b c d e f 『京都盆地の災害地名』 pp.40-42 「北白川」
  8. ^ 『新撰京都名所圖會 巻1』 p.138
  9. ^ 『こども風土記』 p.213、『北白川百年の変遷』 p.55
  10. ^ a b c 『京・まちづくり史』「6.郊外の発見」 pp.191-195
  11. ^ 『北白川の暮らし・すまい・まち』 p.7
  12. ^ 『北白川百年の変遷』 pp.54-56、『続・京都大路小路』 p.90
  13. ^ 『120周年記念誌』 p.28
  14. ^ 『京都の地学図鑑』 p.178、『史料 京都の歴史 8』 p.14、『先史時代の北白川』 p.73。ただし、浸食だけではなく、風化も強く作用している。いずれにしても、現在、東山のこの地域で、比叡山と大文字山(如意ヶ嶽)の山容が目立っているのは、その間の部分が削れてしまった結果である。両山頂はホルンフェルスでよく浸食に耐えるのと比較して、その間の地帯は比較的風化、浸食に脆弱な花崗岩であったためである。また、大文字山登山道にて容易にボロボロに風化した花崗岩を手に取ってみることが可能である。ちなみに山頂までの所要時間は一時間半程度とのことである(『フィールドガイド大文字山』 p.137)。
  15. ^ 『北白川百年の変遷』口絵などではカラー写真と共に確認ができる。
  16. ^ 『こども風土記』 p.210。ちなみに北白川天神宮を天王と呼ぶ場合もある。
  17. ^ a b c 『京都故事物語』 p.328「白河の花」
  18. ^ 『北白川百年の変遷』 p.88、『こども風土記』 p.209、『雍州府誌』神社門 愛宕郡
  19. ^ 京都市情報館[4](2010年6月閲覧)、『120周年記念誌』 p.16、日経タイムス「京都市、白川放水路完成」2008年05月14日 [5](2010年6月閲覧)
  20. ^ 『東山三十六峰を歩く』 p.75、『こども風土記』 p.102、『白川地誌』(『こども風土記』 p.339)
  21. ^ 『こども風土記』 p.107
  22. ^ 『とっておきの日帰り温泉 関西・中国・四国編』 pp.79-80、京都観光Navi 北白川天然ラジウム温泉[6]、ぐるなび 京都北白川不動温泉[7] 京都府薬務課 府内温泉一覧[8] 、『日本百名湯一軒宿の湯 西日本編』 p.97、『温泉・宿ガイド 関西』 p.102
  23. ^ 『続・京都大路小路』 p.90。ちなみに『120周年記念誌』 p.18に1957年(昭和32年)頃の写真が掲載されているが、並木は確認できない。写真が白川通のどの辺りなのかは記述無し。
  24. ^ 『北白川百年の変遷』 p.28、p.64『こども風土記』 p.323 『北白川と嵯峨野』 p.49 ただし、北白川地域住民以外も12間道路と呼称していたかどうかは不明であり、北白川地域に限定された通称である可能性もある。なお、整備は南から北へ向けて行われ、1951年(昭和26年)の地図では上終町が北端となっている。区画整理は「都市計画法」(1919年(大正8年))に基づき、「北白川土地区画整理組合」によって実行された。
  25. ^ 『北白川百年の変遷』 p.76
  26. ^ 『北白川百年の変遷』 p.23
  27. ^ 『こども風土記』 p.57、p.282。1959年(昭和34年)時点では旧道の跡も残っていたとされる。2010年(平成22年)現在は不明。
  28. ^ 『北白川百年の変遷』 p.64
  29. ^ 『北白川と嵯峨野』 p.26
  30. ^ 京都大学百年史編集委員会『京大百年』京都大学、1997年、p.45
  31. ^ 『北白川百年の変遷』 p.75
  32. ^ 『北白川百年の変遷』 pp.95-101。この文献では多数の道標が写真付きで紹介されている。
  33. ^ 2010年(平成22年)現在。参考文献の各バス運行団体のwebサイトを参照
  34. ^ 『北白川百年の変遷』 p.84、同書によれば明治、大正年間で約290人、『こども風土記』によれば、1958年(昭和33年)頃は、300人程度の白川女が居たとされる。
  35. ^ a b 『北白川百年の変遷』 p.85
  36. ^ 京都市観光堂[9] 時代祭の白川女の写真(2010年5月閲覧)
  37. ^ 『新撰京都名所圖會 巻1 東山の部』 p.140
  38. ^ 『京都民俗誌』 p.15
  39. ^ 『京都故事物語』 p.107「白川女」
  40. ^ 『こども風土記』 p.248
  41. ^ 『続・京都大路小路』 p.93。京都新聞 「ふるさと昔語り33 北白川の子安観世音」[10]によれば、2007年(平成19年)時点で10人程度。京都新聞 「大八車の白川女 引退京の風習半世紀支えた花売り」[11](2009年12月19日、2010年6月閲覧)によれば、2010年(平成22年)現在、荷車で昔ながらの行商を行っている白川女はすでに存在しないということとなる。
  42. ^ 宮内庁京都事務所の弁。『新 京の魁』(1989年)によれば、10年ほど前。
  43. ^ 具体的な資料としては具体的には1942年(昭和17年)と1963年(昭和38年)の白川女の名字の比率の変化が少ない点が『北白川と嵯峨野』 p.63で紹介されている。ただし、この間に集計対象の白川女の総数が250名から104人と激減しており、また、長期的に取られたデータは現在の所確認していない。
  44. ^ 『こども風土記』 p.196
  45. ^ 『北白川百年の変遷』 p.58
  46. ^ 『北白川百年の変遷』 p.86
  47. ^ 『こども風土記』 p.193
  48. ^ 『こども風土記』 p.275
  49. ^ 『北白川と嵯峨野』 p.63
  50. ^ 『こども風土記』 p.250
  51. ^ 『週刊京都を歩く 17』 p.24
  52. ^ 『こども風土記』 p.255
  53. ^ 『北白川と嵯峨野』 p.79
  54. ^ 『北白川と嵯峨野』 p.28
  55. ^ 『北白川百年の変遷』 p.11、pp.87-89、『こども風土記』 p.228、『新 京の魁 』
  56. ^ 『こども風土記』 p.348
  57. ^ 『北白川百年の変遷』 p.94、メルシーマルギン[12]。北白川サービスセンター跡の大黒屋北白川店の資料は2010年(平成22年)現在確認できず。
  58. ^ 『こども風土記』 p.299
  59. ^ 『こども風土記』 p.305
  60. ^ とはいえ、移転の行われた時期にはまだ周囲に田畑が拡がっており、当時の村の中央というわけではない。
  61. ^ 『こども風土記』 p.312、または『120周年記念誌』 p.13
  62. ^ 『愛郷』 第44号 p.7
  63. ^ 京都市情報館 広報資料 「京都市北白川児童館の開館」[13]
  64. ^ 『こども風土記』 p.296-313、『北白川と嵯峨野』 p.85。近衛中学校は徒歩通学が原則であり、自転車通学は禁止であるが、山間部の生徒に限ってはバスによる通学が認められている。
  65. ^ 京都市情報局「教育委員会のご案内」[14]
  66. ^ 『120周年記念誌』 pp.8-9
  67. ^ 京都造形芸術大学 ピッコリー図書館[15]
  68. ^ 【北白川派】とは – 映画『のさりの島』便り”. 2022年3月6日閲覧。
  69. ^ a b c 『新撰京都名所圖會 巻1 東山の部』 p.141
  70. ^ 『こども風土記』 p.85
  71. ^ 『こども風土記』 p.91
  72. ^ 「北白川廃寺の問題」
  73. ^ 京都市情報館 「遷都以前の古代寺院」[16]、『北白川百年の変遷』 p.43、「平成18年左京ボイス7月15日号」[17]、「北白川廃寺の問題」、『史料 京都の歴史 8』 pp.21-24(並立説が紹介されている)、『京都日出新聞』1934年11月3日(『史料京都の歴史 8』 p.319)、『こども風土記』 p.45、p.285、京都市情報館掲載の地図[18]の397、社団法人京都埋蔵文化財研究所 現地説明会資料[19][20](pdf)、
  74. ^ 表紙、目次等」『京都大学埋蔵文化財調査報告』第1巻、京都大学文化財総合研究センター、1978年11月。 
  75. ^ 『京都大事典』
  76. ^ 『探訪 縄文の遺跡』 p.113 - 、『考古学 その見方と解釈 上』 p.87 - 95、『日本の古代遺跡 京都1』 p.207、p.208、京都市情報館掲載の地図[21]の401および400-03、『京都ポイントレッスン』 p.11
  77. ^ 京都大学構内遺跡調査研究年報 昭和58年度」『京都大学構内遺跡調査研究年報』第1983巻、京都大学埋蔵文化財研究センター、1986年3月。 
  78. ^ 『こども風土記』 p.29、p.43、『日本の古代遺跡 京都1』 p.207、p.208、『先史時代の北白川』 p.24、『探訪 縄文の遺跡』 p.113 - 、『京都ポイントレッスン』 p.11、「京都府史蹟名勝天然記念物調査報告 第16」(『史料京都の歴史 8』 p.318より)、京都市情報館掲載の地図[22]の400-2、社団法人京都埋蔵文化財研究所 発掘調査報告書[23][24](pdf)、現地説明会資料[25](pdf)
  79. ^ 『先史時代の北白川』 p.22、京都市情報館掲載の地図[26]の400-1
  80. ^ 史跡・名勝・天然記念物・文化財環境保全地区及び埋蔵文化財包蔵地台帳、『考古学 その見方と解釈 上』 p.97-p.102、『先史時代の北白川』 p.34、p.35、p.68、p.69、財団法人京都府埋蔵文化財調査研究センター『京都府埋蔵文化財情報 104号』[27](2007年)
  81. ^ 「月堂見聞集」、『史料京都の歴史 8』 p.312より。
  82. ^ 京都新聞 「ふるさと昔語り33 北白川の子安観世音」[28] 子安観音の写真も確認できる。
  83. ^ 『こども風土記』 pp.69-73、『京都ポイントレッスン』 p.205、『京都の伝説』 p.15、『京都の大路小路』 p.125
  84. ^ a b c d 『愛郷』51号 p.20
  85. ^ 『こども風土記』 pp.69-73
  86. ^ a b “京のこばなし 55 太閤の石仏”. 京都新聞: pp. 朝刊 p.20. (1980年2月22日) 
  87. ^ 『京都の伝説』 p.15
  88. ^ 北白川天神宮ホームページ
  89. ^ 『区民の誇りの木 左京区』
  90. ^ 北白川天神宮のホームページ、『北白川天神宮御造営記念誌』、『こども風土記』 p.121、p.361
  91. ^ 『北白川百年の変遷』 p.79、『北白川と嵯峨野』 p.29、p.78、北白川天神宮ホームページ、国際日本文化研究センター 『都年中行事画帖』北白川天神祭[29]
  92. ^ 京都市指定・登録文化財-無形民俗文化財-左京区.京都市情報館、京都市公式サイト
  93. ^ 『こども風土記』 p.93
  94. ^ 『北白川百年の変遷』 p.70
  95. ^ 『こども風土記』 p.77、p.364、『東山三十六峰を歩く』 p.66
  96. ^ 日本郵便 [30]内、京都府京都市左京区北白川の郵便番号案内。正確な読み方などを参照。「町」は特記の無い場合は「ちょう」。なお、『120周年記念誌』の世帯数と人口の表では、粟田口如意ヶ嶽町の世帯数・人口数も北白川の他の町と同時に掲載されている。






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