制服 (ナチス親衛隊)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/25 10:27 UTC 版)
概要
ミリタリールックの中でもナチス政権下のドイツの軍服は世界的に人気が高く、中でもSSの制服はその筆頭といわれる[1]。
SS隊員ははじめ突撃隊(以下SA)と同じ褐色シャツ型制服を着用していたが、1932年にSSの制服として有名な黒いスーツが制服として採用された。1938年には黒服と同型の野戦灰色(フェルトグラウ)の制服が導入された。
一方SS特務部隊(武装SS)では陸軍の野戦服と類似した野戦服が使用された。武装SSの戦車・装甲車搭乗員(以下戦車兵)も陸軍の戦車兵に類似した黒い制服を着用していた。ただし陸軍の物とは若干形状が異なる。武装SSはほぼ全部隊に迷彩服を支給していたため、迷彩服の先駆者とされている。
SSで使用された制帽は共通してトーテンコップ(髑髏)が帽章として使用されていた。
勤務服
黒服前の褐色シャツ制服
ナチスの最初の準軍事組織であるSAは褐色で統一されたシャツ型の上着[注釈 1]とネクタイ(党員はネクタイに党員章)、ズボン、ケピ帽を制服として使用していた。
SSは1925年4月に結成されたが、1932年までSAと同型で色だけ異なる制服を使用していた。シャツ型上着はSAと同じく褐色だったが、ケピ帽の色が黒く、ネクタイも黒く、ズボンも黒い物を用いた。またハーケンクロイツの腕章の上下に黒のストライプを入れることでSAと差別化を図った。色以外でSAの制服と違っていたのは、ケピ帽にトーテンコップ(髑髏)の徽章を入れていることがある[3][2]。
1926年11月にSAがその制服に階級と所属部隊を明らかにするための襟章を導入[4][2]。これに倣ってSSも1929年8月に襟章を導入した。SAは所属する管区・部隊等を示す為、襟章に様々な配色を設けていたが、SSの襟章は銀と黒で統一されていた。SSでは所属部隊は左腕の袖のカフタイトル(袖章)で示した[2]。SAと同様に襟周りや襟章の縁にパイピングを用いており、このパイピングは黒服以降の制服にも受け継がれたが、1940年には廃止された(しかし襟周りのパイピングは廃止後も使用されることも多かったという)[注釈 2]。
ただし褐色シャツ制服は特に支給されておらず、各隊員が自前で揃えるものであった[6]。
黒服制定以降にはこの褐色シャツの制服は「伝統の制服(Traditionsanzug)」と呼ばれるようになり、ナチ党の式典などで着用されるようになった。ただ褐色シャツは基本的にSAの制服であり、この服を式典で着たがるのは野党時代の闘争を懐かしむ古参SS隊員だけであったという。親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーもこの服を好まず、式典には黒服で出席していた[7]。
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SS隊員(左列)とSA隊員(右列)。SS隊員たちの帽子はすでにケピ帽ではなく制帽になっている(1933年、ハンブルクでのマルガ・フォン・エッツドルフの棺の警護)
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褐色シャツ型制服。帽子は制帽(1933年ユダヤ人の性科学者マグヌス・ヒルシュフェルトの研究所の本を焚書のために集めるSS隊員)
黒服
1932年7月7日に制服が大きく改訂され、SSの制服として有名な黒色勤務服(SS-Dienstrock Schwarz)が定められた[8][9][注釈 3]。
黒服のデザインをしたのはグラフィックデザイナーのSS上級大佐カール・ディービッチュといわれるが[11][12]、これを疑う説もある[13]。黒服のデザインのモデルとなったのはプロイセン王国時代の第1近衛軽騎兵連隊と第2近衛軽騎兵連隊であるという[12][14]。「黒」は神聖ローマ帝国やプロイセン王国の旗の一部を構成する色でもあり、ドイツにとって象徴的な色で高貴な部隊であることを意味する。
黒いネクタイをつけた褐色のシャツの上に黒いスーツを着用する。スーツの前ボタンは4つ付いており、開襟して着用する。ふた付きポケットが胸、腰に2つずつ計4つあり、腰ポケット2つは斜めになっていた[12][4]。肩章は右肩にのみ装着する。背部には腰の部分にベルトフックとベルト止めの役割があるボタンが二つ付いており、ボタンから裾までひれのようなプリーツが入っている[15][16]。黒スーツの下に着るシャツは基本的に褐色のシャツだが、礼服として着用する場合には白いシャツを用いることも許可されていた。1938年頃からは日常勤務服としても白いシャツが併用されるようになった[16]。
下士官・兵士に支給する黒服はナチ党の「国家装備統制局」(Reichszeugmeisterei,略称RZM)と契約した民間企業の工場において製造されていた[11]。一方将校はRZM規格品をSS被服販売所で購入するか、オーダーメイドで仕立てる場合がほとんどであった[17][6]。上級隊員は1933年のうちには黒服を手に入れたが、下級隊員の間では1935年ぐらいまで褐色シャツ制服が黒服に混在して使用され続けたという[6]。
1939年6月27日以降には夏用に黒服と同じデザインで色だけ異なる「白服」が将校にのみ支給された[18]。着用期間は4月1日から9月30日までであった[18]。ただし依然として黒服を一年中着ることは認められていたので、高価な白服をわざわざ購入したSS隊員はほとんどいなかった[19]。そのため白服はベルヒテスガーデンでの式典を除きほとんど着用されなかったという[20]。白服はここで見られる。
1935年に親衛隊特務部隊、続いて1936年に親衛隊髑髏部隊でアースグレー色やアースブラウン色の野戦服が導入されたため特務部隊と髑髏部隊は日常制服としては黒服を着用しなくなった[9][21][22]。以降は一般SSだけが黒服を着用していたが、1938年に一般SSに常勤する隊員に野戦灰色の新しい勤務服が導入されたため、彼らも日常制服としては黒服を使わなくなった[23][注釈 4]。以降の黒服は礼服としてのみ使用されるようになった[25]。
しかし一般SSの予備役的な存在であった非常勤一般親衛隊隊員には野戦灰色勤務服が支給されなかったので、彼らは日常制服としても黒服を使用し続けた。戦争がはじまると非常勤一般親衛隊員は続々と徴兵され、大幅に数が減少した。彼らの分の余剰になった黒服は徽章などを外して外国人SS部隊や占領地現地民による補助警察シューマ(Schutzmannschaft,略称Schuma)の隊員に支給された[26][27]。
戦時中のドイツ国内で日常制服として黒服を使用していたのは予備役的存在となっていた4万人の一般親衛隊非常勤隊員が中心だった。そのため黒服は兵役忌避者の象徴となり、嘲笑の的になってしまったという[23]。
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黒服。下は褐色シャツ(ウィーン軍事史博物館展示物)
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黒服のヒムラー。ダッハウ強制収容所視察中
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戦時中、外国人部隊に使用された黒服(1941年ネーデルラントSSのヘンク・フェルトマイヤー)
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夏用の白服(1939年ミュンヘン。クルト・ヴィリムチク博士)
野戦灰色の勤務服
1938年からSSの本部(SS-Hauptamt, 国家保安本部、経済管理本部など12の本部)に勤める一般SS常勤隊員に野戦灰色勤務服(SS-Dienstrock Feldgrau)が支給された。前述したが、一般SSでも非常勤隊員にはこの野戦灰色勤務服は支給されなかった[28]。
基本的に黒服と同型だが、黒服が右肩にのみ肩章が取り付けられるのに対して野戦灰色勤務服は両肩に肩章が取り付けられた。またハーケンクロイツの腕章の代わりに左腕の部分に鷲章が刺繍されることとなった[23]。開襟で着用した武装SSの野戦灰色野戦服とも似ているが、異なる点としてはこちらは黒服と同じく前ボタンが4つの開襟服として裁断されているため予め開襟での着用しかできず、また背部にベルト止めボタンが2つ付いている点である[29][16]。
一般SS常勤隊員には、支給制服、SS被服購買所などで購入した制服、洋服店で仕立てさせた高品質の制服を着る者があった。武装SSと異なり、一般SSでは階級に関わらず財産に余裕があれば任意で特注の制服を仕立ててもかまわなかった。逆に将官であっても裕福でない者などは支給品を着続ける場合もあった。SSは貴族・ブルジョワなど既存の上流階級に抵抗するいわば「革命勢力」を自認し、能力さえあれば家柄、身分に関係なく出世できたので将官であっても裕福であるとは限らなかった[26]。
戦時中には一般SSでも武装SSの野戦灰色の野戦服を着用する者が増えた。特に占領地勤務者にそれが顕著だった[23]。
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野戦灰色の勤務服
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一般SSのグレーの制服のイラスト。
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一般SSのグレーの制服(ロフォーテン戦争記念博物館の展示「ゲシュタポ・オフィス」)
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一般SSのグレーの制服を着るSS少将ヴァルター・シェレンベルク
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一般SSのグレーの制服を着るSS中将カール・ヘルマン・フランク
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マウトハウゼン強制収容所勤務のSS少尉。飾緒と礼装ベルトを用いて、礼服として着用している
武装SSの野戦服
SSの制服には「勤務服」(Dienstrock)と「野戦服」(Feldbluse)があり、武装SS(SS特務部隊)隊員には両方とも支給されていた[30]。「勤務服」については一般SSのものと同じである。「野戦服」が武装SSだけに支給される特別な制服である。
SS特務部隊やSS髑髏部隊も当初は一般親衛隊と同じ「黒服」を着用していたが、戦場での作戦行動や強制収容所警備において目立つため新たに野戦服が製造されることになったのである[23]。
初期のアースグレーの支給野戦服
草創期のSS特務部隊にはアースグレーの野戦服が支給されたが、このアースグレー野戦服ははじめ部隊ごとに様々な種類があった。1935年初めに「ライプシュタンダルテ・SS・アドルフ・ヒトラー」と特務部隊用に統一されたアースグレー色の野戦服が支給されるようになった(M35野戦服)[9][21][31]。M35野戦服は1935年11月のSS指令で正式に認可された[17]。
アースグレー野戦服の裁断は基本的に黒服と同型だったが、前ボタンが黒服より1つ多く、全5つとなりラペルを閉じての着用が可能だった[21]。ただし将校用は前ボタンが4つであり、開襟でしか着用できなかった[32]。
1936年3月には髑髏部隊にもアースブラウン色で同型の野戦服が非戦闘時・日常用勤務服として支給された[33][34](なお髑髏部隊以外の強制収容所所員は通常の勤務服を着用していた[25])。
陸軍M36野戦服の影響からか、1936年になると部隊によっては襟をダークグリーンに改造している例も見られた(特にLSSAH所属の下士官兵士など)[17]。
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SS特務部隊で初期に使用されたアースグレーの野戦服(1935年、SS特務部隊第2連隊「ゲルマニア」所属のフリッツ・ダーゲスSS少尉)
野戦灰色の支給野戦服
1937年にこの二つの野戦服が統一し、野戦灰色の野戦服が採用され、特務部隊と髑髏部隊に支給された[9][21]。これはM37野戦服と呼ばれる[9][35]。ドイツ陸軍のM36野戦服をモデルにして作られたが、襟が制服と同じ野戦灰色である点(陸軍のは襟の部分がダークグリーンだった)や下ポケットが切り込み式で斜めについている点(陸軍のは上下ポケットともに貼り付け式で水平になっている)などが陸軍M36野戦服と異なった[9][21][36]。詰襟でも開襟でも着る事が出来た[35]。ただ1940年頃までアースグレーの野戦服を着用している部隊も存在したとされる[37]。
戦争がはじまり、武装SSの隊員数が急増した1939年末に武装SSは陸軍のM36野戦服の大量支給を余儀なくされた[15]。これにSSの徽章をあしらった野戦服が1940年から支給されるようになった(M40野戦服)[9][38]。陸軍のM36野戦服の使いまわしなので襟がダークグリーンの物もあるが、陸軍型野戦服も1940年以降に生産された物は襟が野戦灰色になっていた(M40野戦服)[39]。SS被服工場[注釈 5]でもM40野戦服に準じた野戦服が製造されており、これは襟を野戦灰色にして製作していた[9]。
もともとSSの被服工廠はダッハウ強制収容所にしかなかったが、1939年にラーフェンスブリュック強制収容所にも置かれるようになり、第二次世界大戦緒戦の勝利により占領地にも続々と置かれ、1941年には生産体制が整い、陸軍に頼ることなく独自に野戦服を生産できるようになった[39]。1941年より生産されたM41野戦服は外見はM40野戦服(陸軍用野戦服の流用品)と類似していたが、裏地の仕様が大きく異なっていた[39]。
1942年からは、陸軍のM42野戦服と同様、ポケットのプリーツを廃したものが、M42野戦服として生産されるようになり[9][40]、翌1943年においても陸軍のM43野戦服と同様、ポケットの口の形が単純化され直角になったM43野戦服が支給されるようになった[9][41]。素材もウールの使用量が大幅に減らされ保温機能が悪化した[40]。なお、武装SSのM42・43野戦服は前ボタンが陸軍と異なり全5つとなっている。
1944年には更なる生産工程の簡素化のために野戦服が全軍共通になり、徽章のみが異なる「M44野戦服」が生まれた[9]。これは極端に丈が短く、胸ポケットのみで、それまでの野戦服の下半分が簡略化された裁断になっている[42]。そのため、英軍の野戦服「バトルドレス」とデザインが類似している[43]。素材はさらに粗悪品となり消耗が激しかったという[42]。
(SS-VT/WSSの勤務服及び野戦服の配色の変遷)
色 年代
1934年~1935年
1935年頃
1936年頃
1940年頃
1944年頃
1945年頃
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下士官用の陸軍型M40野戦服。
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左端の下士官は襟の色が濃い陸軍型のM40野戦服。隣の兵士たちは襟の色が服と同色のM40野戦服(1942年6月ロシア。ヴィーキング師団兵)
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陸軍型のM40野戦服
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襟の色が服と同色のM40野戦服。首に掛けたゴルゲットは憲兵勤務に就いていることを示す(2016年ノース・ヨークシャー・ムーアズ鉄道戦争ウィークエンド)
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ポケットのプリーツが無くなったM42野戦服
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M42野戦服を着る第12SS装甲師団「ヒトラー・ユーゲント」の兵士たち。
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M42野戦服
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SDのSS伍長のM43野戦服。ポケットのプリーツが無く、ポケットの口は直角。
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M43野戦服。左肩のメダル状のものは認識票で、本来は首に掛けて上衣または肌着の下で携帯される
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丈が短いM44野戦服。左上腕の白腕章は巡察勤務中であることを示す
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SS(向かって左)と陸軍(奥)のリエナクター
将校の野戦服
陸軍と同様に武装SSでも兵士・下士官は支給物、将校は独自にオーダーメイドした物を着用した[44]。そのため将校は被服手当を受けていた(SS将校の受けていた被服手当は陸軍将校より多額であった)[45]。
SS将校たちははじめ特務部隊のM35野戦服やM37野戦服と同型の野戦服を仕立てることが多かったが、やがて陸軍将校と同型の野戦服を仕立てるのが一般的になっていった[46]。そのため襟がダークグリーンになっていたり、腰ポケットが斜めの切り込みポケットではなく水平の貼り付けポケットになっていたりする物が多かったが、中には武装SSの制服規定に合わせて襟を野戦灰色にしたり、腰ポケットを斜めの切り込み型に裁断した物もあった[45]。
ただし消耗を避けるため、戦闘中には将校も支給品の野戦服を着用する者が多かったとされる[47]。
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陸軍将校の物と同型に仕立てたSS将校野戦服。徽章はイギリス人60名から成るSS義勇部隊「イギリス自由軍団」の物
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左の武装SS将校役は襟の部分がダークグリーンの陸軍将校型。右の武装SS将校役は襟の部分が野戦灰色(2008年ワルシャワ蜂起再現イベント)
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陸軍型のSS将校制服(SS将校役を務めるポーランドの俳優ツェザリ・ザック)。
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陸軍将校型野戦服(1942年、ハンス・フライヘア(男爵)・フォン・ハデルンSS少佐)
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マウトハウゼン強制収容所所長フランツ・ツィライスSS中佐(中央)。襟が濃いところは陸軍型だが、下ポケットが斜めの切り込みポケットなところは武装SS型の作り
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エーリヒ・フォン・デム・バッハ=ツェレウスキー大将(左)。前ボタンが8つで切り込み型腰ポケットのヴァイマル共和政時代の国軍(Reichswehr, ライヒスヴェーア)型の裁断
迷彩服
武装SS(SS特務部隊)は迷彩服の先駆者である。世界で初めて迷彩服を正式採用して大量に支給した。現在でこそ世界中の軍隊で当たり前のように使われている迷彩服であるが、当時の繊維・染織技術で迷彩服のような複雑なプリント生地を大量に製造するなどということは前例のない試みであった[48]。
SS特務部隊の迷彩服の研究は1935年から始められた。まず迷彩ヘルメットカバーとツェルトバーン(迷彩柄ポンチョ)、顔面偽装具といった迷彩装備が開発された[49]。これらが1936年末にSS特務部隊ドイッチュラント連隊の演習に実験的に使用された結果、迷彩装備を使用した場合には兵の消耗を15%抑えることができるという結論が出されたことによって採用が決定した[50]。
迷彩柄のツェルトバーンはすでに陸軍でも開発されていたのだが、SS特務部隊ではこの後迷彩服だけを目的とした迷彩スモックの開発がすすめられ、1937年末に世界初の規格型迷彩スモックを誕生させた[49]。このスモックは通常の野戦服の上にかぶって着用するもので、胸元には切れ込みが入っており、紐で留めるようになっていた[51]。リバーシブルになっており、グリーンを基調とする夏面とブラウンを基調とする秋面がある[52]。
1937年から1941年頃まで支給された迷彩スモックは1型と呼ばれ、前合わせ部分に防風フラップが付いており、脇の下に通気スリットが設けられていなかった。しかし1941年から1942年にかけて支給された2型の迷彩スモックでは実戦経験や生産性の問題から防風フラップは廃止され、脇の下に通気スリットが設けられるといった改良が施された。さらに1942年から斜めにカットされたリバーシブルで使える雨蓋つきの腰ポケットが付けられた3型が登場した。3型の後期型では生産性の問題からこの腰ポケットがまっすぐになっている[53]。
当初、手作業で作成していたため、数は限定的でポーランド戦争の頃には一般的ではなかったが、1940年6月頃に生産がローラープリントで機械化できるようになったため、1941年の独ソ戦の頃からほぼすべての武装SS部隊に迷彩スモックが行き届いたという[54][55]。
さらに1944年3月には迷彩スモックに代わって迷彩柄の上衣とズボンが揃った杉綾織(ヘリンボーン)デニム製の迷彩スーツが登場した。形状はM43野戦服に準じており、5個の前ボタンと4個のプリーツ無しポケットだった[56]。規定では徽章類は左腕に鷲章を付けるのみとされ、従来の肩章は使用しないことになっていたが、この規則はあまり守られなかったようである[57]。迷彩スーツは単体で着用してもよかったが、従来のスモックと同様に通常の野戦服の上から着用してもかまわなかった[58]。
武装SSが使用した迷彩柄は多種多様であるが、欧米のコレクターたちは武装SSの迷彩柄を次のような分類をすることが多い。斑点模様の「すずかけの樹(Plane tree)」、柏葉の切れ込み模様のような「柏葉(Oak Leaf)」、すずかけの樹の迷彩柄をぼやかしたような「ぼやけた縁(Blurred Edge)」、竹の葉のような模様と小さな花柄のある「シュロの樹(Palm tree)」、M44迷彩スーツに使用された細かい斑点の5色刷りの「エンドウ豆(Pea)」などである[59]。ただしこうした分類はあくまでコレクターの間の便宜上の物であり、武装SSがこうした分類をしていたわけではない[60]。これらの迷彩柄の多くは迷彩服だけでなくツェルトバーンやシュタールヘルムカバー、迷彩帽、顔面偽装具などにも幅広く使用された[61]。
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迷彩スモック(2007年、ポーランド。第28SS義勇擲弾兵師団の再現イベント)
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迷彩スモック(左同)
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迷彩スモック(左同)
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迷彩柄「すずかけの樹」の夏面
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迷彩柄「すずかけの樹」の秋面
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M44迷彩スーツに使用された迷彩柄「エンドウ豆」
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M44迷彩スーツを着用した武装SS隊員とヴァルター・モーデル(右)
戦車兵軍服
戦車兵の黒服
ドイツ陸軍の戦車兵の黒い軍服は有名であるが、武装SSの戦車兵も同じく黒い軍服を着用した。初めは陸軍の戦車兵の軍服が支給されていたが、1938年頃からSSが管理する強制収容所の被服工場で武装SS独自の戦車兵軍服の制作が開始され、1941年頃からこれが大量支給されるようになり、1942年以降には陸軍の物は使用されなくなっていった[62][63]。
陸軍の物と比べると親衛隊の戦車兵軍服は丈が短く[64]、下襟が小さいことなどがあげられ、下襟が小さいがゆえに武装SS戦車兵の前合わせは垂直になっている[62][65]。陸軍の戦車兵軍服は上襟周りに兵科色のパイピングが入っているが、武装SSは将校が銀のパイピングを入れるのみだった[65][66]。さらに陸軍のものは背中の生地を二枚継ぎ合わせていたので背中に縦に一本縫い目が付いていた。しかし武装SSは一枚だったので縫い目がなかった[62][63][64]。また襟章は陸軍が髑髏を入れていたのに対して武装親衛隊は親衛隊の階級章を入れていた[67]。
ズボンも武装SSと陸軍では若干異なり、武装SSのものは隠しベルトがなく、代わりにウエストの両側にバックル付きの絞りが付いていた。また武装SSではズボンの左右腰についているポケットやズボン前部に付いている懐中時計用ポケットの蓋が2つのボタンで留められていた[62]。
ネクタイは黒、シャツはグレーかブラウンが通常だが、オプションで黒いシャツも認められていた[65]。
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武装SSの戦車兵の軍服
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武装SS戦車兵の軍服(左)(2016年スペイン。ノルマンディー上陸作戦の際のポワント・デュ・オック占領の歴史再現イベント)
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武装SSの戦車兵の黒服(左)と陸軍型SS迷彩防寒服(右)
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武装SS戦車兵軍服。LSSAH師団戦車エースのミヒャエル・ヴィットマンSS大尉。帽子はクラッシュキャップ
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大戦前期に武装SSで使用された陸軍型の戦車兵軍服(アメリカ陸軍情報部『JAN #1 UNIFORMS AND INSIGNIA』)
戦車兵の迷彩服
黒い軍服は戦車兵にとって誇りであったものの目立ちやすいため(特に白雪のつもった冬)、戦場では敵の砲火の標的にされやすかった。武装SSは陸軍よりも早くこの対応に乗り出した。1943年夏のツィタデレ作戦の際に正式に戦車兵用の迷彩カバーオールを採用した。「柏葉」の迷彩柄であり、これは当時SSで使用されたツェルトバーンと同じ柄である[68]。リバーシブルの生地を使ってグリーンを基調とした夏季迷彩面と、ブラウンを基調とした秋季迷彩面があったが、ポケットは夏季面にしかついていなかったので完全なリバーシブルではなかった。ポケットは4つで両胸ポケットはドットボタン、両腿のポケットはポンチョ用のボタンで留められた。袖口と腰にはゴムが入っている[69]。
さらに1944年1月には戦車兵に支給されていたリード・グリーンのツーピース作業着が迷彩柄に取り換えられることになった[70]。迷彩柄はM44迷彩スーツと同じ「エンドウ豆」だった。それ以外は作業着と同じく黒い戦車兵制服と同じ裁断になっている[68]。
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迷彩作業着の武装SS戦車兵。帽子は戦車兵用の黒い略帽
戦車兵の黒革ジャケット
武装SSの一部の戦車兵に着用が見られた潜水艦Uボート搭乗員用の作業用の黒革ジャケットである。第12SS装甲師団「ヒトラー・ユーゲント」の戦車兵がキール軍港でこれを入手して着用するようになったのに始まる。光沢のあるボタンが特徴だった[71]。
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戦車兵の略帽と黒革ジャケット
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黒革ジャケットを着た第12SS装甲師団「ヒトラー・ユーゲント」の兵士たち(1943年フランス)
突撃砲兵軍服
1940年4月にLSSAHに突撃砲中隊が初めて編成されたのに伴い、武装SS用の突撃砲兵軍服が制定された。武装SS戦車兵の黒軍服と同型だが、色が野戦灰色であった。しかし1941年頃までは陸軍の突撃砲兵の軍服が流用されることもあった[66]。1942年夏頃から武装SS用突撃砲兵軍服が広く支給されるようになった[72]。戦車軍服と同様に将校は上襟の襟周りに銀パイピングを入れることがあった。またLSSAHのみ下士官は襟周りにトレッセを入れた[66]。
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突撃砲兵の軍服を着るクルト・ザメトレイターSS曹長(1943年8月)
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突撃砲兵の軍服を着るアドルフ・ギュンターSS上級曹長(1943年6月)
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ヨーゼフ・ディートリヒSS大将と突撃砲将校たち(1942年ロシア)
熱帯服
武装SSは北アフリカ戦線には従軍していないが、南ヨーロッパのバルカン戦線 (第二次世界大戦)には従軍しており、気温の高いギリシャでの戦闘において武装SS将兵たちは陸軍のコットン製の熱帯用野戦服を独自に調達して使用した。これがきっかけとなり、武装SS独自の熱帯服の開発がすすめられることとなった[73]。
1942年から支給されるようになった武装SSの熱帯野戦服はドイツ軍ではなくイタリア軍の熱帯野戦服「サハリアーナ(Sahariana)」をモデルにして作られており[73]、肩から胸を大きなフラップが覆っており、胸ポケットのボタンでとめる仕様になっていた[74]。このフラップは放熱効果のために付けられていたという。素材は陸軍熱帯服と同じコットン製。前ボタンは4個で開襟して着用する。ボタンは洗濯に便利なよう着脱式になっている。1943年にはポケットのプリーツを省略したM43熱帯服が製作されるようになった[73]。規定では熱帯服には肩章や鷲章は付けるが、襟章は付けないことになっていたが、襟章を付けている者も見られる[75]。
熱帯服の登場とともに各種熱帯帽や熱帯シャツ、熱帯ズボン(半ズボンもあった)なども導入された[49]。
東部戦線の防寒着
ドイツ軍はウール製オーバーコート以外に特別な防寒着の備えがないまま独ソ戦を迎えたため、1941年から1942年にかけての冬季の東部戦線では凍傷・身体機能低下による戦線離脱者が相当数に及んだ。この対策で国防軍は1942年後期からウールまたはコットンレーヨン地の面と白いコットン地の面を反転着用できるリバーシブルで中に保温材が入っている防寒服とズボンを支給するようになった(軍服 (ドイツ国防軍陸軍)#東部戦線の防寒野戦服参照)。武装SSでも一部の部隊がこの防寒着を流用したが、同時期に武装SSは裏地が毛皮の42年型防寒服とズボンを武装SS独自の防寒着として定め、武装SSではこれが一般的となっていく[76]。
この42年型防寒着は防水性のあるセメントグレーのギャバジン製で、裏地が毛皮の重いパーカータイプのコートだった[77]。防寒性を考慮してプルオーバーになっており[78]、対のズボンも一緒に支給された。また地面に雪が積もると染色されていない白のコットン製のフード付きスモックとズボンが支給され、防寒着の上から着用した[77]。
この42年型防寒着は陸軍防寒着より保温性には優れていたが、重い上、毛皮部分が破損しやすいなど欠点も多く、どちらかというと陸軍防寒着の方が機能的だったという。SS経済管理本部長官オズヴァルト・ポールも陸軍防寒着に変更するべきと主張していた[76]。
1943年10月1日、武装SSは陸軍型のSS迷彩防寒服を採用した[79]。フード、ジャケット、ズボン、ミトンから成り、どれも防風素材を二重に重ねており、ウールレーヨンが間に挟んである。秋期迷彩柄の面と白い面のリバーシブルであり、通常野戦服の上から着用した。白側は汚れやすかったので戦闘以外では迷彩柄で着用するよう命じられていた[80]。陸軍型との違いとしては迷彩の他、ポケットのふたの形状が陸軍は直線状なのに対し、SSの物はアーチ状である点、袖部に敵味方識別布用のボタンがない点があげられる。他にも細部にいくつか違いがある[79]。
42年型防寒着に完全に取って代わることはなく、両者は併用して生産・使用された。1943年後期から1944年初期にかけては42年型防寒着の前合わせを改良した物が登場した。着脱しやすいようプルオーバーからボタンで全開できるスタイルになっており、また胸ポケットのプリーツはなくなっている[79]。
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1942年型の裏地が毛皮の防寒着(1943年ハリコフ攻防戦のヘルマン・ダールケSS少尉)
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1943年型の陸軍型SS迷彩防寒服
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武装SSの戦車兵の黒服(左)と陸軍型SS迷彩防寒服(右)
注釈
- ^ SAや初期のSSが使用していた「褐色シャツ」はシャツのような外見だが、正確には上着であってその下には襟なしのシャツを用いていた[2]。
- ^ 襟周りや襟章の縁のパイピングには変遷がある。制定直後の襟周りのパイピングは、SS大尉までが白(将校はアルミ)と黒の捻り、SS少佐以上がアルミの捻りの物を使用していたが、1934年10月以降には下士官までが黒とアルミの捻り、将校はアルミの捻りに変更された。1940年に全階級でパイピング廃止となった。一方襟章の縁のパイピングははじめ下士官までが白の綿か絹の捻り、SS大尉までが黒とアルミの捻り、SS少佐以上がアルミの捻りとなっていたが、1934年10月に下士官以下が黒とアルミの捻り、将校はアルミの捻りとなる。1940年には下士官以下はパイピングを廃止された[5]。
- ^ しかしこれより前の1930年に黒服を着用してる写真が確認されていることから1932年の黒服制定命令はそれ以前から制服として使用されはじめていた黒服を改めて制服に指定した物と考えられる[10]。
- ^ ただ1942年4月28日のラインハルト・ハイドリヒの覚書に黒服を禁止した旨の記述があり、戦時中にも禁止命令を出さねばならないほどに黒服が国家保安本部内で依然として着用されていた可能性がある[24]。
- ^ 武装SSの野戦服は一般SSと異なりRZM契約民間企業ではなくSS独自の被服工場で製作されていた[39]。
- ^ 消す方法は各隊員に任せるとされていたので、多種多様に行われた。レームの名前だけ消した隊員もあれば、献辞全体を消した隊員もあった。プロに依頼して丁寧に消した隊員もいれば、砥石車で乱暴に削り取った隊員もあった。ただ削る手間を面倒がって隠した隊員やレーム粛清前に死亡して遺族が相続していた物などもあり、それらの中にはレームの献辞が無傷で残っている現物もある[208]。
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