制服 (ナチス親衛隊)
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黒マント
1934年に制定された黒服の上に羽織る黒マント。マントには首元のストラップと前身頃に4個の隠しボタンが付いていた。襟には襟章、襟周囲にはパイピングが付く。後に(1938年頃)、鷲章のデザインの銀アルミニウムの留め金具が登場した。マントは希望する隊員が自費で購入するものだったが、高価だったため購入した隊員はほとんどなかったようである。マントを所持している人物にハンス・ハインリヒ・ラマース名誉SS大将、ヨシアス・ツー・ヴァルデック=ピルモントSS大将、テオドール・アイケSS大将などがいる[98]。
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黒いオーバーコート(左)と黒マント(右)
制帽
ケピ帽
SAと同型の制服を着用していた頃に使用された帽子。SAの使用したケピ帽は褐色だったが、SSの物は黒く、また髑髏の徽章を付けるのが特徴的であった。1932年制定の黒服用制帽に取って代わられた。
クレッツヒェン
クレッツヒェン(Krätzchen)は帝政ドイツ軍で使用されたバイザーのない制帽のような帽子である。SSが使用したものは色が黒く、正面に髑髏の帽章と鷲章を付けた[99]。ここでSSのクレッツヒェンを見られる。
クレッツヒェンはSSが誕生したばかりの1925年頃からSSで使用されてきた[100]。1933年から1934年にかけて特務部隊で頻繁に使用された[99]。主に訓練で使われた[101]。しかし1935年に黒い略帽が制定されると取って代わられた[100]。1935年に正式に廃止された[101]。
一般制帽
1932年7月7日に黒服とともに黒い制帽(Dienstmütze)が制定された。それ以前のケピ帽に代わる帽子であった。髑髏などSS専用の徽章類を除けば陸軍制帽とほぼ同形状である。最初の物は黒だったが、制服の色に併せてアースグレーや野戦灰色の制帽が作られていった[100]。素材はうね練りのギャバジン素材が多かった[102]。
初期の制帽は第一次世界大戦のドイツ軍や戦後のヴァイマル共和国軍の軍帽の流れを組んでいたので、あまりトップが高くなく、潰れているような感じの物が多かった[4]。1935年から制帽の形状は、前面のトップが高く、よりぴんと張った鞍形のスタイルへと変更された。また制帽の髑髏章の形がプロイセン時代からの下顎のない物から下顎が付いた物に変わったのが1935年後半で、鷲章の形が大型化し横に広い形になったのが1936年前半のことである[103]。
顎紐は将校が銀のアルミモールを使用し、兵士・下士官は革の物を使用した。制帽の縁取りの色は大佐以下の階級の者は白、准将以上の階級の者は銀を使用した[104]。1940年5月には縁取りの色を兵科色にするようにとの命令が出されたが、同年12月には白・銀に戻すよう再命令が下された。しかしこの命令に従わない者が多く、兵科色の縁取りがなされた一般制帽がその後も広く使用され続けたという[104][100]。
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野戦灰色の将校用一般制帽
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黒い将校用一般制帽
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将校の夏白服用の一般制帽
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野戦灰色の下士官兵士用一般制帽。顎紐が革。
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野戦灰色の下士官用一般制帽。顎紐が革。
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野戦灰色の将校用一般制帽側面
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将校用一般制帽を被る第2SS装甲師団「ダス・ライヒ」の将校オットー・ヴァイディンガーSS少佐(後に中佐)。
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下士官用制帽を被るライナー・ゾームネンSS曹長(1943年1月1日)
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初期型の制帽。前面のトップが低く、1936年以前の鷲章と1934年以前の髑髏章が付いている(1934年のヴェルナー・ローレンツSS中将(後に大将))。
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初期型の黒色制帽を被るエミール・モーリス(1933年)
クラッシュキャップ
陸軍と同様にSSでも制帽の代わりとしてクラッシュキャップが使用された。クラッシュキャップはコレクターたちの間での俗称であり、正式名称は野戦帽(Feldmütze)という(後に支給を廃されたので旧式野戦帽という)[105]。
一般制帽と似ているが、帽子の中に形状を保つためのワイヤーが入っていないため、ふにゃふにゃしている。あご紐は付属しない。髑髏と鷲章は機械織りの刺繍であることが多かったが、金属製である場合もあった[106]。通常のクラッシュキャップのつばは革製であるが、SSでは1938年に「SS下士官用野戦帽(Feldmütze für Unterführer)」という下士官用クラッシュキャップが制定しており、これはつばが革ではなく布だった。この影響で将校でもつばが布の物を使う者がいた[107][108]。
陸軍ではクラッシュキャップは1938年に支給を廃されているが[109]、武装SSでは1940年前後に支給を廃されたとみられる[106]。しかし持ち運びに楽であるため、支給を廃された後も多くの前線の武装SS将兵がオーダーメイドしてかぶっていた[106]。オーダーメイドを惜しんで一般制帽からワイヤーの支えを取り除くなどしてクラッシュキャップ風に改造している例も見られる[105]。
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クラッシュキャップをかぶる髑髏部隊SS上等兵。つばが布。
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クラッシュキャップをかぶるヨアヒム・パイパーSS少佐(後に大佐)。つばが革。
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2009年8月10日、ポーランドでのワルシャワ蜂起の再現イベント。クラッシュキャップをかぶる武装SS将校役。つばが革。
一般親衛隊スキー帽
1934年にスポーツ着の一部として承認されたバイザー付きの帽子である。後に制定される規格帽と似ている。黒いウールで製造され、2個のボタンで耳当てが前面に留められており、これを外すことで側面を降ろして耳当てにできた。髑髏章は帽子のクラウン部分、鷲章は左側面に付いていた[110]。
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右端の人物がスキー帽(同)
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スキー帽をかぶる参加選手(同)
略帽
制帽の代わりに用いられた略帽である。正式名称はクラッシュキャップと同じく野戦帽(Feldmütze)である。船のような形なので「小舟(Schiffchen)」という愛称があった[106]。日本では一般に略帽と呼ばれている[108]。
SSで最初に略帽が制定されたのは1934年だった。特務部隊の下士官兵士用にアースグレーの野戦服用に制定された。1935年には黒服用の黒い略帽も登場した。こちらはクレッツヒェンに代わるものとしての導入であった。その後、アースブラウン野戦服や野戦灰色野戦服用の同じ色の略帽も登場した[64]。これらの略帽は折り返し部分の前部をえぐったような陸軍の略帽に似た形状である。正面に浮彫の髑髏が入ったボタンがついており(このボタンは1935年に定められた。それ以前は無地か石目柄[111])、左側面部分に鷲章が入っていた[100]。1939年末に兵科色がSSに導入されると陸軍と同様に略帽の前部に山型のパイピング(Soutache)を付けるようになった[112]。
1940年からは新型略帽が導入された。こちらの略帽は空軍の略帽のような流れる形状であり、鷲章とボタンではない髑髏帽章を正面につけた[113][106]。
1943年以降は下記の規格野戦帽に取って代わられた[114]。
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黒略帽をかぶるSS兵たち(1936年ベルリンオリンピック)
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陸軍型略帽(エルンスト・ヘウスラーSS少佐)
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空軍型略帽
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空軍型略帽(左)
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空軍型略帽
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空軍型略帽の側面
規格帽
陸軍、空軍、SSで規格が異なっていた略帽を統一するため、1943年6月11日に陸軍で統一規格野戦帽(Einheitsfeldmütze)が制定された[115]。この帽子は日本では一般に規格帽と呼ばれている[106]。1943年に制定されたためM43帽とも呼ばれる[116]。
SSでは1943年10月1月にこれが採用された[117]。陸軍の物とほぼ同じだが、折り返しを止める前部のボタンが陸軍の規格帽は二個ボタンのみなのに対して、武装SSの規格帽には一個ボタンの物も存在した。また武装SSの規格帽には鷲章が真横についている物もあった[106]。
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規格帽をかぶって測距望遠鏡を操作する武装SS兵。ボタンが一個。
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2009年8月10日、ポーランドでのワルシャワ蜂起の再現イベント。規格帽をかぶる武装SS兵役。ボタンが二個で真横に鷲章
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ボタンが一個の黒い規格帽。鷲章は真横。
迷彩帽
夏季迷彩面と秋季迷彩面のリバーシブルになっているバイザー付きの帽子である[118]。
1942年5月に初めて導入された。迷彩効果最優先のこの帽子には鷲章や髑髏などは付けないはずだったが、前線からの要望が多かったため、SS全国指導者ハインリヒ・ヒムラーは、1942年6月1日付けの命令で帽子の正面に鷲章と髑髏を入れることを認めた[119]、
しかし迷彩効果が弱まることを危惧したヒムラーは、1942年12月1日の命令で迷彩帽の鷲章と髑髏の色について夏面は緑、秋面はライトブラウンにすることを規定した。さらにそのわずか2週間後には鷲章と髑髏を外すよう命令を出した[120]。しかし将兵の多くはこの命令を無視したという[118]。
迷彩帽に使われる迷彩柄は「柏葉」と「すずかけの樹」の2種類だけである[119]、
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迷彩帽(2008年ワルシャワ蜂起再現イベント)
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左右両端の兵士が迷彩帽をかぶっている(1944年フランス)
フェズ帽
フェズとは中東の伝統的帽子。ムスリムの兵士が多い第13SS武装山岳師団と第23SS武装山岳師団でのみ着用が許されていた[121]。鷲章とトーテンコップが入っていた。兵士下士官はモス・グリーン、将校は赤いフェズ帽をかぶった[122][123]。また赤いフェズ帽は礼装用でもあった[124]。
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第13SS武装山岳師団のフェズ帽(左)。下に赤いフェズ帽
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赤いフェズ帽
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フェズ帽を被る第13SS武装山岳師団の兵士たち
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フェズ帽をかぶる第13SS武装山岳師団の兵士たち
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フェズ帽をかぶる第13SS武装山岳師団の兵士たち
シュタールヘルム(鉄兜)
シュタールヘルム本体
ドイツ軍の象徴ともいうべきシュタールヘルム(鉄兜、Stahlhelm)については、SSは陸軍の物と同じ物を使った[125]。貼りつけるデカールだけSSと陸軍で異なった。シュタールヘルムには35年型、40年型、42年型の3種類が存在する[125]。1936年からSS特務部隊に35年型が支給されるようになった。それ以前のSSのシュタールヘルムは主に一次大戦時代の物やSS国家主計局で作った物が使用されていた[126]。もっとも西方電撃戦ぐらいまでの頃には一次大戦時のシュタールヘルムが依然として用いられていたという[36]。
1935年型は空気穴がヘルメット本体と別パーツになっているが、40年型以降は一体化されてプレス加工になった。また材質がモリブデン鋼からマンガン・シリコン鋼に変更された[36]。ついで1942年7月6日には更なる工程の簡素化が行われ、これまでヘルメットの縁が中に折り曲げられていたのが、縁を少しだけ外側にそらすだけの1942年型が生まれるようになった[36][125]。3つのシュタールヘルムの違いについてはここが詳しい。
SSのシュタールヘルムにははじめ右側にSSルーン文字のデカール、左にハーケンクロイツのナチ党旗のデカールが貼られていたが、迷彩効果のうえで問題があり、1940年3月に左のナチ党旗のデカールは外すよう命令があり、以降は急速に見られなくなった[127]。その後は右側にSSルーン文字のデカールだけを付けていた[128]。1943年11月にSSルーン文字のデカールも外すよう命令が出ているが、こちらは外されることはあまりなく敗戦まで一般的に見られた[129]。外国人部隊の場合には左側にSSのデカールを貼る例も見られる[125]。
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シュタールヘルムの左側に入れるナチ党旗のデカールと右側に入れるSSのルーン文字のデカール。ナチ党旗のデカールは1940年3月に廃され、その後は急速に消えた。
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ナチ党旗のデカールが入ったシュタールヘルム
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SSのデカールが入ったシュタールヘルム(2008年)
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SSのデカールが入ったシュタールヘルムをかぶるフリッツ・レントロップSS中尉
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1942年、ロシア戦線の武装SS兵。
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シュタールヘルムの内装。革製のハンモック形状となっている。
シュタールヘルムの迷彩カバー
武装SSのシュタールヘルム迷彩カバーは3個の留め金(フック)でシュタールヘルムに取り付けた。カバーに付いている金属はこのフックとスプリングだけであり、他は16個の布片から成る。リバーシブルで夏面と秋面がある。SSの迷彩カバーは既存の材料で前線でも簡単に製作できたため、フックを含めて様々な型が存在している。そのため現物と戦後のレプリカの区別が困難な品になっている[130]。
1937年に制定されたI型と1942年に制定されたII型があり、I型では偽装ループが付けられていなかった[131]。
カバーの迷彩柄は「すずかけの樹」や「柏葉」、「シュロ」、「ぼやけた縁」など様々な物があるが[132]、M44迷彩スーツの「エンドウ豆」の柄で作成されたカバーは制式の物にはない。ただ現地で作成された物の中にはあった可能性もある[133]。
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迷彩カバーをかけたシュタールヘルム(2016年スペイン。ノルマンディー上陸作戦の際のポワント・デュ・オック占領の歴史再現イベント)
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迷彩カバーをかけたシュタールヘルムを被る武装SS兵たち(1944年東部戦線)
注釈
- ^ SAや初期のSSが使用していた「褐色シャツ」はシャツのような外見だが、正確には上着であってその下には襟なしのシャツを用いていた[2]。
- ^ 襟周りや襟章の縁のパイピングには変遷がある。制定直後の襟周りのパイピングは、SS大尉までが白(将校はアルミ)と黒の捻り、SS少佐以上がアルミの捻りの物を使用していたが、1934年10月以降には下士官までが黒とアルミの捻り、将校はアルミの捻りに変更された。1940年に全階級でパイピング廃止となった。一方襟章の縁のパイピングははじめ下士官までが白の綿か絹の捻り、SS大尉までが黒とアルミの捻り、SS少佐以上がアルミの捻りとなっていたが、1934年10月に下士官以下が黒とアルミの捻り、将校はアルミの捻りとなる。1940年には下士官以下はパイピングを廃止された[5]。
- ^ しかしこれより前の1930年に黒服を着用してる写真が確認されていることから1932年の黒服制定命令はそれ以前から制服として使用されはじめていた黒服を改めて制服に指定した物と考えられる[10]。
- ^ ただ1942年4月28日のラインハルト・ハイドリヒの覚書に黒服を禁止した旨の記述があり、戦時中にも禁止命令を出さねばならないほどに黒服が国家保安本部内で依然として着用されていた可能性がある[24]。
- ^ 武装SSの野戦服は一般SSと異なりRZM契約民間企業ではなくSS独自の被服工場で製作されていた[39]。
- ^ 消す方法は各隊員に任せるとされていたので、多種多様に行われた。レームの名前だけ消した隊員もあれば、献辞全体を消した隊員もあった。プロに依頼して丁寧に消した隊員もいれば、砥石車で乱暴に削り取った隊員もあった。ただ削る手間を面倒がって隠した隊員やレーム粛清前に死亡して遺族が相続していた物などもあり、それらの中にはレームの献辞が無傷で残っている現物もある[208]。
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