制服 (ナチス親衛隊)
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徽章
トーテンコップ(髑髏)
SSの帽章には共通して「交叉する骨の上に髑髏」で知られる「トーテンコップ(ドイツ語で髑髏)」の徽章が入っていた。トーテンコップは、一見海賊旗の旗印にも似ているが、海賊旗の髑髏章は、頭蓋骨の下に交差した骨が配されているのに対し、トーテンコップは頭蓋骨が骨に重なっている。トーテンコップは元々ドイツや北欧・東欧地域では古来より用いられている徽章であり、SSの帽章のトーテンコップのデザインはプロイセン王国時代の軽騎兵をモチーフとしていると言われている[134]。意味合いとしても、海賊旗のどくろは降伏しないと危害を加えると言うメッセージを相手に伝えるために使用していた[135]のに対し、トーテンコップには「骨になっても祖国のために戦う」という意味がある[136]。当初SSは下顎がない伝統的なトーテンコップを使用していたが、1934年に陸軍が戦車兵の軍服を制定してその襟章に同じくプロイセン時代からのトーテンコップを使用したため、混同されないようSSのトーテンコップの形に変更が加えられ、下顎がつけられてよりリアルな髑髏になった[136][137]。この形は伝統的なものではなくSS独自のトーテンコップである。
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制帽のトーテンコップ
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1934年まで親衛隊制帽に付けられていたトーテンコップ。プロイセン時代からの伝統的な形である。
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1934年からデザイン変更されたトーテンコップ。下顎が追加された。
鷲章
1923年から1929年にかけては、SSの制帽のトーテンコップの上にはドイツ帝国軍やヴァイマル共和国軍と同様に円形章(コカルデ)が入っていたが、1929年秋にナチスの鉤十字の上に翼を広げて留まる鷲をデザインした「鷲章」(アドラー)が取り入れられることとなった(ナチ党政権掌握後、国防軍も鷲章に変更されている)。この「翼を広げて留まる鷲」のデザインは古代ローマ帝国時代を起源とする伝統的なデザインで、さらに1936年に鷲章のデザインが変更され、大型になり鷲の翼が横に広くなった[138]。この新しいSS鷲章は一見陸軍の鷲章と似ているが、陸軍鷲章は羽根の上端が一番長いのに対し、SS鷲章は羽根の中間部分が一番長いという違いがある[139]。
黒服のナチ党旗の腕章に代わるものとして、1935年に導入されたSS特務部隊(武装SS)のアースグレーの野戦服の左腕にもSS鷲章が刺繍されるようになり、その後の野戦灰色の野戦服にも受け継がれた。1938年以降の一般SSのグレー制服の左腕にもSS鷲章が刺繍されるようになった[140]。
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1936年まで親衛隊制帽に付けられていた鷲章。
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1936年からデザイン変更された鷲章。
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左腕に刺繍されたSS鷲章
襟章
襟章は親衛隊大佐以上と親衛隊中佐以下で大きく異なった。親衛隊大佐以上は左右対称になっている柏葉で階級のみを示した。親衛隊中佐以下は右襟の襟章で所属する師団や所管を示し、左襟の襟章で階級を示した[141]。
たとえば右の襟章に数字だけが入っている場合はその数字は一般SSの所属連隊の番号を指している[142]。右襟章が無地の場合は国家保安本部、技術専門職、あるいはSSの本部や司令部の要員であることを意味している。トーテンコプフ(髑髏)の襟章ならば親衛隊髑髏部隊、トーテンコプフ師団、強制収容所所員などであることを示す。SSのルーン文字の襟章をよく見かけるが、これは他の襟章を付ける立場にないすべてのドイツ人・ゲルマン人隊員が付けていた[143]。1940年には親衛隊特務部隊のドイツ人・ゲルマン人師団は独自の襟章を廃されたため、SSルーン文字で統一された。敵に何師団か判別されないという防諜上の理由であるとされる[144]。ただ外国人義勇兵はそれぞれの師団の独自の襟章を使い続けた。
階級章については親衛隊大佐以上は柏葉と星の数で示し、親衛隊中佐以下は星とリッツェ(Litze)で示した。しかし親衛隊特務部隊(武装親衛隊)においては1938年に陸軍型の肩章を導入したので襟章での階級表示は二重表示になるので不要という話も出るようになった。そのため大戦初期に襟章の変更が繰り返されて襟章の階級章が廃されたり復活されたり混乱した時期があった。最終的にヒムラーはSS独自の階級章も示す必要があるとして陸軍型肩章と旧来の親衛隊襟章による二重の階級表示とした[144]。
なお迷彩服用の階級章も存在していた[145][146]。これは下士官以上が上腕に佩用するもので、迷彩服のほか、肩章を持たないシャツ・ジャケット・防寒被服などでも用いられた。
SSの階級と階級章については変遷があり、煩雑なので詳しくは親衛隊階級の項を参照のこと。
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親衛隊少佐の襟章。右襟については所属師団や任務による襟章が定まっている場合はその襟章を付ける。そうでない場合はこのルーン文字SSの襟章を付ける。
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親衛隊大佐の襟章
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SDの制服。右襟が無地である。
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襟章にトーテンコップをあしらったマウトハウゼン強制収容所のSS少尉三名。
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上腕用の階級章。1~5が下士官、6~8が尉官、9~12が佐官、13~16が将官のもの。
肩章
SSにおいて肩章は1933年5月に導入されたものである[147]。黒服の肩章は右肩にしかついてなかったが、SS特務部隊や武装SSの野戦服、一般SSのグレーの制服には両肩に肩章が付いていた[148]。
基本的にSSでは細かい階級は襟章で示した[148]。肩章は下士官兵卒、下級将校(尉官)、上級将校(佐官)、将官という大雑把な区別をする物だった[149][147]。しかし1938年3月にSS特務部隊(武装SS)では陸軍と同じ肩章が導入され、肩章でも階級を表すようになった[148]。一般SSは従来の肩章を使用し続けたが、やがて一般SSでも陸軍型の肩章を使用する者が増えた[147]。
また武装SSの肩章には所属部隊が分かるような徽章も入れられていたが、これは1943年10月のヒムラーの決定により廃された[150]。SDや保安警察の所属者には警察型の肩章を使用している者も見られる[151]。
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前の運転席に座るSD兵が一般SS下士官兵卒用の肩章を着用。SD少尉やSD下士官たちは陸軍型肩章を使用(1939年9月ポーランド)
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一般SSの将官肩章(1934年SD長官ラインハルト・ハイドリヒSS少将)
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大戦の初期に見られた陸軍型の制服に一般SSの将官型肩章を用いた例。(1940年LSSAH師団長ヨーゼフ・ディートリヒ(左))
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金色と灰色の金属糸が編み込まれた表面の将官用の陸軍型肩章。星の数から親衛隊上級大将の肩章と分かる。
カフタイトル
![](https://weblio.hs.llnwd.net/e7/redirect?dictCode=WKPJA&url=https%3A%2F%2Fupload.wikimedia.org%2Fwikipedia%2Fcommons%2Fthumb%2F6%2F6f%2F%25C3%2584rmelstreifen_der_SS.png%2F180px-%25C3%2584rmelstreifen_der_SS.png)
![](https://weblio.hs.llnwd.net/e7/redirect?dictCode=WKPJA&url=https%3A%2F%2Fupload.wikimedia.org%2Fwikipedia%2Fcommons%2Fthumb%2Ff%2Ff5%2FMoritz_Ruhl_Leipzig_1937_DEUTSCHE_UNIFORMEN_Tafel_14_Uniform_und_Rangabzeichen_der_SS_Waffenrock_Sturmband_Achselst%25C3%25BCcke_Kragenspiegel_Rank_insignia_Shoulderstraps_Collar_Caps_etc_No_known_Copyright_restrictions_Retouched_brighter.jpg%2F160px-thumbnail.jpg)
SSの制服の特徴の一つが「カフタイトル」である。カフタイトルは英語の呼び名であり、正式には「袖章」(Ärmelstreifen)という[154]。
SSの制服には左腕の袖の部分にこれが付けられている事が多い[155]。陸軍もグロースドイッチュラント師団など一部の部隊がカフタイトルを使用していたが、SSではより多くの部隊で使用されていた[154]。
カフタイトルには所属する師団、連隊、本部、親衛隊地区などの名が書かれていた[156]。たとえば一般SSの連隊所属者は、カフタイトルに所属連隊名が書かれ、カフタイトルの縁取りの色で所属大隊、番号で中隊を示した[142]。(緑-第1大隊、青-第2大隊、赤-第3大隊、白-予備大隊)なお部隊によっては名誉部隊名がつけられている事があるが、その場合は名誉部隊名のカフタイトルが優先された[157]。他部隊へ転属した場合には必ず新しい部隊のカフタイトルに変更しなければならなかった。ただ新しい部隊にカフタイトルがない場合は以前の部隊のカフタイトルを使用することが許可されていた[158]。矛盾しない組み合わせの場合、一人が二つのカフタイトルを付けているケースも見られる[159]。
親衛隊名誉指導者などにも独自のカフタイトルがあった[157]。なお親衛隊全国指導者(Reichsführer-SS)の略称である「RFSS」のカフタイトルは親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーの幕僚であることを表す[159]。「Reichsführer-SS」のカフタイトルも存在するが、これは第16SS装甲擲弾兵師団「Reichsführer-SS」の隊員であることを意味しており、ヒムラーの幕僚のカフタイトル「RFSS」とは別物なので注意が必要である[160]。
戦争中にはカフタイトルの授与式は厳かに行われた。そこに書かれている部隊の名前を汚すことがないようにという意味が込められるようになったためである。ただ外国人師団には師団名を与えられていない場合があったり、また与えられていてもカフタイトルは授与されなかったケースが多い。部隊名やカフタイトルがその部隊に与えられるためには、それにふさわしい戦功を立てることが期待されたといわれる。あるいは外国人部隊は本来はSS隊員としてふさわしくないという思想でそうなっていたのかもしれない[155]。
カフタイトルに書かれる文字はヒトラーの手書きである「ライプシュタンダルテ・アドルフ・ヒトラー」以外は初めゴシック体で表記されていたが、後に標準ラテン字体に変更された[155]。
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LSSAH師団長ヨーゼフ・ディートリヒSS大将、左袖のカフタイトルにヒトラーの筆記文字による「Adolf Hitler」の文字
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第34SS義勇擲弾兵師団「ラントシュトーム ネーダーラント」(Landstorm Nederland)のカフタイトル
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SS士官学校「バート・テルツ」(de)(SS-Junkerschule Bad Tölz)及び「フライコーア・ダンマルク」(Freikorps Danmark)のカフタイトル
ダイヤモンド型職掌記徽章
1930年代前半以降、特定の職掌に従事しているSS隊員は勤務服に黒いダイヤモンド型の記章を付けることになった。通常は左腕袖口のカフスの約3.5センチ上に取り付けた[161]。
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SS人種移住本部のダイヤモンド型記章
古参闘士名誉章
ナチ党政権掌握(1933年1月30日)以前からナチ党かナチ党組織(SSである必要はない)に所属していたSS隊員は、1934年2月より右上腕部に古参闘士名誉章を付けるようになった。後に基準が緩められて、国防軍や警察からSSに入隊してきた者のうち、一定の基準を満たしている者も付けることが許されるようになった[162]。オーストリアSS隊員については1938年2月12日より前にオーストリア・ナチ党の一員だった者に認められた[163]。
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古参闘士名誉章
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エトムント・フェーゼンマイヤーSS少将、右腕に古参闘士名誉章が付いている
兵科色
武装SSは1939年末に兵科色(Waffenfarben)を導入した。陸軍とは異なる独自の兵科色を使用した。主な兵科色は以下のとおりである[164][152]。通常は制帽や肩章などにこの色のパイピングが付けられて兵科を表したが、制服が新型になるにつれて兵科色表示部分は次々と廃止されていった[152]。
兵科色 | 兵科 | 兵科色 | 兵科 |
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ホワイト (Weiss) |
歩兵・擲弾兵・装甲擲弾兵 | オレンジ (Orangerot) |
兵員募集・技術・憲兵 |
ライトグレー (Hellgrau) |
将官 RFSS幕僚、個人幕僚、本部要員 |
コパーブラウン (Kupferbraun) |
偵察(-1942年6月) |
ダークグレー (Dunkelgrau) |
RFSS幕僚(1942年より) | ライトブラウン (Hellbraun) |
強制収容所 |
ブライトレッド (Hochrot) |
砲兵、対空砲、ロケット砲兵 | ポイズングリーン (Giftgrün) |
SD |
カーマインレッド (Karminrot) |
獣医 | メドウグリーン (Jägergrün) |
山岳猟兵 |
ワインレッド (Bordeauxrot) |
法務 | ダークグリーン (Dunkelgrün) |
予備将校 |
ライトピンク (Hellrosa) |
軍事地質学者 | ライトブルー (Hellblau) |
輸送・補給 野戦郵便局(1943年2月-) |
ピンク (Rosa) |
装甲・対戦車砲兵・戦車猟兵 | ブライトブルー (Tiefblau) |
行政官 |
サーモンピンク (Lachsrosa) |
自動車部隊 | コーンフラワーブルー (Kornblumenblau) |
医療 |
レモンイエロー (Zitronengelb) |
通信 野戦郵便局(-1943年2月) 野戦報道部隊 |
ブラック (Schwarz) |
工兵 |
ゴールデンイエロー (Goldgelb) |
騎兵 偵察(1942年6月-) 自動車化偵察部隊 |
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装甲科の武装SS将校の制服。フチ取りに装甲科を示すピンクのパイピングが付けられた制帽と肩章。
注釈
- ^ SAや初期のSSが使用していた「褐色シャツ」はシャツのような外見だが、正確には上着であってその下には襟なしのシャツを用いていた[2]。
- ^ 襟周りや襟章の縁のパイピングには変遷がある。制定直後の襟周りのパイピングは、SS大尉までが白(将校はアルミ)と黒の捻り、SS少佐以上がアルミの捻りの物を使用していたが、1934年10月以降には下士官までが黒とアルミの捻り、将校はアルミの捻りに変更された。1940年に全階級でパイピング廃止となった。一方襟章の縁のパイピングははじめ下士官までが白の綿か絹の捻り、SS大尉までが黒とアルミの捻り、SS少佐以上がアルミの捻りとなっていたが、1934年10月に下士官以下が黒とアルミの捻り、将校はアルミの捻りとなる。1940年には下士官以下はパイピングを廃止された[5]。
- ^ しかしこれより前の1930年に黒服を着用してる写真が確認されていることから1932年の黒服制定命令はそれ以前から制服として使用されはじめていた黒服を改めて制服に指定した物と考えられる[10]。
- ^ ただ1942年4月28日のラインハルト・ハイドリヒの覚書に黒服を禁止した旨の記述があり、戦時中にも禁止命令を出さねばならないほどに黒服が国家保安本部内で依然として着用されていた可能性がある[24]。
- ^ 武装SSの野戦服は一般SSと異なりRZM契約民間企業ではなくSS独自の被服工場で製作されていた[39]。
- ^ 消す方法は各隊員に任せるとされていたので、多種多様に行われた。レームの名前だけ消した隊員もあれば、献辞全体を消した隊員もあった。プロに依頼して丁寧に消した隊員もいれば、砥石車で乱暴に削り取った隊員もあった。ただ削る手間を面倒がって隠した隊員やレーム粛清前に死亡して遺族が相続していた物などもあり、それらの中にはレームの献辞が無傷で残っている現物もある[208]。
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