伏見城 城郭

伏見城

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/04 03:25 UTC 版)

城郭

伏見城縄張図/内閣文庫蔵
伏見の城 松の丸の図/絵本太閤記
河川を航行する高瀬舟/復元船

現在の城跡は江戸時代初期に破却され、その後明治時代宮内省御料地とされ、明治天皇桃山陵、昭憲皇太后桃山東陵となったため、遺構調査も容易ではなく、年代によっては史料が不明な点も多いが、推定復元は試みられている。

「伏見指月城がどのような縄張りだったのかについてはくわしいことはわからない」とし、指月伏見城がどのような城だったかは不明と指摘されている[26]。また「伏見城築城工事に動員された人員の数が指月の面積に対して多すぎる事、発掘調査によっても堀等が検出されなかった丘陵北側の防備が弱い事、当時の文献で「指月」と呼ぶものが1例しかない事等から、伏見城は当初から木幡山一帯を主体部とした」としており、指月伏見城のみに城があったという説を最近の発掘調査などより否定し、木幡山に伏見城の主体があった可能性が指摘されている[27]。しかし最近になって従来指月城があったとされていた場所から秀吉時代のものと思われる石垣が発見されたためやはり指月城は現在の指月の地にあったものと考えられるようになった。推定地はJR桃山駅南側にある市街地となっており、団地などが建っている[28]

縄張り

木幡山伏見城時代の縄張りは、標高約105mの木幡山丘陵一帯に比較的複雑な構造をしている。本丸部分は東西約200m、南北約300mの長方形を基調に、本丸西側には、側室淀殿」の御殿があった二の丸(西の丸)、北東側には側室「松の丸殿」の御殿があった松の丸、東側には名護屋丸、南側には四丸(増田長政丸)を配して、北側には、本丸から松の丸そして出丸を介して、北側一帯曲輪群(4つの曲輪)と連絡する。更に二の丸の南西側には、側室「三の丸殿」の御殿があった三の丸、そこから北西側には治部少丸(石田三成丸)を配し、その南側に大手が推定されている。治部少丸の間際まで及んでいた内堀は今も部分的に「治部池」として残る。この城の特徴として、城南東部に山里丸、茶亭学問所の空間があり、その先に宇治川と繋がる舟入場が設けられていた。また、宇治川により守られる南方部に対し脆弱な北方については、堀と防塁を設けた。堀は現在も「濠川」として伏見の町並みを包むように北から南西に流れている。土塁はほとんどが破壊されたが、わずかに伏見区桃山町丹下の栄春寺境内に残る(高さ約6m、幅20m、長さ約80m)。

なお、指月伏見城時代の様子は、図面の類は皆無、文献も乏しく全く分からない。

天守

『洛中洛外図』の徳川時代の伏見城
独立式天守の例

徳川期木幡山伏見城の天守は二条城へ移築されたため史料が比較的残っているが、それ以前の天守については不明な部分が多い。

『洛中洛外図屏風』池田本では、徳川期木幡山伏見城のものと見られる天守が白壁の望楼型5重に描かれている。伏見城に移築される以前は、豊臣秀保大和郡山城の7重天守であったが伏見城へ移築するにあたり5重に改められたといわれている[29]。しかし、大和郡山城の天守については、伏見城へではなく徳川家康によって二条城へ移築されたという説があり、寛永6年(1624年徳川家光の二条城改修によって二条城旧天守を淀城へ移築する代わりとして伏見城天守は二条城へ移築されたという[30]。この二条城の寛永期天守は寛延3年(1750年)に落雷のため焼失している。

天守台は地形図より本丸の北西部に独立した天守台が残っており、これは徳川家康が再建した天守台である。現在見られている模擬天守は木幡山伏見城の花畑曲輪跡に建てられた。天守、小天守の連結式天守であるが史実との関係はない。

建物

建物の具体的な構造は不明だが、文献史料から伏見城の存在が知られる。

第1期伏見城時代
不明
第2期伏見城時代
天守、大手2階櫓、舟入櫓、矢櫓、一の門、二の門、北之門、大広間、小広間、小座敷、風呂屋、湯殿、水屋、台所、長屋、四畳半数寄屋、二畳半数寄屋、滝之屋敷、二重古塔
第3期伏見城時代
天守、月見櫓、千畳敷櫓、大手城門、二階門、二の丸御門、表唐門、松丸の長屋、虎の間、千畳敷き、三間九間座、楊貴妃の間、台所、松丸御座敷、松丸数寄屋、松丸古社、松丸小座敷、四方之御座敷、塔、舟入御殿、学問所、三重塔(比蘇寺塔)

多くの建物があったことが窺える。

またこの城は非常に沢山のが出土している。金瓦とは瓦の上にを塗り、その上に金箔を貼っている。金瓦の種類としては、飾瓦、鐙瓦、宇瓦、鬼鯱瓦、小菊瓦、熨斗瓦がある。城の殿舎だけではなく、城下町にあった大名屋敷にも葺かれていた。京都市埋蔵文化財研究所には出土した金瓦が陳列されている。

城下町

また伏見城の城下町には、大手門から西に伸びる大手筋を基軸として碁盤の目に街路が整備され、現在も「桃山町毛利長門西」など人名の屋敷跡と町名表示が同じであった場所が散見できる(京都市伏見区の町名#旧堀内村も参照)。

町名からわかる伏見武家(屋敷)名
遠山民部 板部岡江雪斎 藤堂高虎 根来愛染
山口直友 板倉重宗 本多正純 泰長老
石田三成 徳川家康 伊達政宗 細川忠興
福島正則 毛利輝元 鍋島直茂 金森可重
羽柴長吉 筒井定次 井伊直孝 水野忠鼎
最上家親 長束正家 山岡景友 生駒親正
大友義統 蜂須賀至鎮 浅野長政 村上義明
宮城豊盛 杉原長房 平野長泰 加藤清正
佐野房綱 大島光義 前田利家 仙石秀久
谷衛友 前野長康 山中長俊 池田輝政
島津氏 松平氏 南部氏 関氏
慶長丁銀

これら地名から推察されている屋敷名は、豊臣秀吉時代の家臣団だけでなく、徳川家康の家臣団も含まれているが、大半は豊臣秀吉時代の大名達である。

城下町にはもともと伏見九郷という村落があったが、住民は築城にさいして強制移住させられたと伝わっている。さらに東の六地蔵から西の三栖、北は深草七瀬川付近、南は宇治川対岸の向島までも城下に取り込み、大きさは東西に約4km、南北に約6kmという広範囲のもので、尾張国中村の住人や、京、大坂、尼崎職人商人を居住させた結果、人口は約6万人の大都市が誕生し、一部土塁と堀で囲まれた惣構えとなっていた。『京の城』によると、「後に全国で誕生する城下町の原型になったと考えられます」として、伏見城の城下町が近世城下町の先駆であったと示唆している。また、キリシタン大名小西行長黒田長政等は鬼門の方角、東北に集中して屋敷地を与えられている。

城跡に関しては、発掘調査が容易ではないが、城下町に関しては数次の発掘調査が実施されている。1991年(平成3年)に行われた発掘調査では惣構えのが発見され、濠は幅34mとなっていた。また北濠でも、幅70mを超える濠跡があり、石垣も検出できた。桃山町伊賀でもV字をした素掘りの濠が見つかっている。『京の城』では「用途と場所に応じて石垣の使用と濠の形を分けていた可能性があります」と指摘している。また他の場所でも、徳川時代の遺構や大名屋敷の門跡や階段跡などが発見されている。

また伏見城下町には、日本はじめての銀座造幣局)があった(現「銀座町一丁目付近)。徳川家康が直轄としていた鉱山の主要なものとして、石見大森銀山、但馬生野銀山佐渡金山、伊豆金銀山、常陸金山があげられる。これら主要鉱山を直轄地とするとともに、1601年(慶長6年)、大坂より大黒常是を招きここ伏見の銀座において「慶長豆板銀」「慶長丁銀」の鋳造を開始し、全国統一貨幣として流通させた。この銀座は後に京都(現「京都国際マンガミュージアム」付近)に遷された。


  1. ^ a b 織田・豊臣政権期の時代区分「安土桃山時代」や、その文化「桃山文化」などの呼称はこの通称から取られたものである。
  1. ^ 鹿苑日録の文禄元年8月17日によると、「太閤相公御隠居所於伏見決定云々。」とある。
  2. ^ 兼見卿記の文禄元年八月二十日条によると、「今日、太閤大坂より伏見に至り御上洛云々、伏見御屋敷普請縄打ち仰付らる」とある。
  3. ^ 『多聞院日記』文禄元年八月二十四日条によると、「京都伏見ニ太閤隠居所立之 体篇之地取在之云々」とある。
  4. ^ 『多聞院日記』文禄元年九月三日条によると、「於伏見太閤隠居城立トテ事々敷普請此頃在之云々」とある。
  5. ^ 文禄元年十二月十一日条に前田玄以に宛てた書状によると、「ふしみのふしんの事りきう(利休)にこのませ候てねんごろに申つけたく候」とある。
  6. ^ 『城と秀吉』
  7. ^ “秀吉を震え上がらせた「1596年慶長伏見地震」の破壊力”. 産経新聞. (2014年6月21日). https://web.archive.org/web/20140621133540/http://sankei.jp.msn.com/west/west_affairs/news/140621/waf14062118000001-n1.htm 2014年6月21日閲覧。 
  8. ^ 慶長5年8月5日に石田三成が真田房州、真田豆州、真田左衛門左に宛てた書状によると、「城内悉火をかけやけうちにいたし候」とある。
  9. ^ 慶長5年8月6日に石田三成が真田安房守に宛てた書状によると、「悉懸火不残一宇焼払候事」とある。
  10. ^ 慶長5年8月7日に石田三成が上杉義宣に宛てた書状によると、「一宇も不残焼捨候事」とある。
  11. ^ 内藤昌、大野耕嗣、高橋宏之「伏見城(I)武家地の建築」『日本建築学会論文報告集』181号、1971年3月。 
  12. ^ 『伏見城跡 京都市伏見区桃山町下野 27-1 の発掘調査』2018年、株式会社四門
  13. ^ 「儀典用」との説もあるが将軍宣下はいずれも伏見城で行われており必ずしも適切な定義とは言えない。
  14. ^ 松葉屋グループ|歴史・沿革 によると、伏見城跡に設けた堀内村の庄屋を代々務め、明治時代に同村の土地を皇室へ寄進したとの記述がある。
  15. ^ 伏見城跡に謎の土盛り 陵墓立ち入り調査で確認 - MSN産経ニュース(産経新聞、2009年2月20日付、2010年1月28日閲覧)
  16. ^ 伏見桃山城、活用策決まらず10年 城主の京都市、困惑:京都新聞2012年10月29日
  17. ^ 伏見桃山城を存続させる会(2012年6月16日時点のアーカイブ) - 伏見夢工房
  18. ^ 伏見桃山城、活用策決まらず10年 城主の京都市、困惑 - 京都新聞(2012年10月29日付、同日閲覧)
  19. ^ 茶々 -天涯の貴妃(おんな)-和央ようか、豪華絢爛打ち掛け姿初披露! - 東映(2007年10月29日付、2010年1月28日閲覧)
  20. ^ 伏見桃山城その1:黒塗り時の天守
  21. ^ 城めぐり8伏見城:黒塗り時の天守
  22. ^ 伏見桃山城築城50周年記念/伏見・お城まつり
  23. ^ 京都・伏見桃山城、築城50年
  24. ^ 京都の住宅街 「幻の伏見城」発掘に歴史ファン2300人が集結
  25. ^ 初期の伏見城か、遺構発見=金箔瓦など出土―京都
  26. ^ 小和田哲男『城と秀吉』角川書店、1996年8月
  27. ^ 佐賀県立名護屋城博物館『肥前名護屋城と「天下人」秀吉の城』佐賀県立名護屋城博物館、2009年
  28. ^ 発掘ニュース95 伏見・指月城の復元」『リーフレット京都』No.261、京都市埋蔵文化財研究所・京都市考古資料館、2010年10月。 
  29. ^ 西ヶ谷恭弘監修『復原 名城天守』学習研究社 、1996年
  30. ^ 宮上茂隆執筆『歴史群像 名城シリーズ7 江戸城』学習研究社、1995年
  31. ^ 天下人・秀吉の「幻の伏見城」石垣や瓦片出土 京都の造成地産経新聞 2015年6月18日21時17分
  32. ^ "2年前発見の伏見城石垣跡、大名屋敷の可能性 京都"(京都新聞、2017年2月17日記事)。
  33. ^ 伏見城跡・指月城跡 現地説明会資料”. 京都市文化財保護課. 2021年6月30日閲覧。
  34. ^ 城戸久「大阪城伏見櫓建築考」『建築學會論文集』27号、1942年
  35. ^ 8 文化財 福山市、2022年8月27日閲覧。






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