木幡山伏見城時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 14:31 UTC 版)
伏見城は大きな地震に見舞われたが火災は起きなかったようで、櫓や殿舎の木材などが再利用可能で、「十四日、伏見山山頂に御縄張仰せ付けられ、奉行衆罷り超す」(『当代記』)とあり地震が起きた2日後、同年閏7月15日には木幡山伏見城の作事が着手されている。本丸が完成したのは同年10月10日であった。『城と秀吉』によると、「こうしたスピードは、建設資材のかなりの部分が再利用されたからこそ可能だったものと思われる」とし再利用による築城の速さを指摘している。ただ作事に先立ち大規模な普請(土木工事)が必要だから、この早さにはそれ以前に木幡山移転計画があり、普請がすでに始まっていて作事も着手されていたとの推測も可能で、実際、文禄3年1月の日付を持つ木幡山城の縄張り図も残る。慶長2年(1597年)5月には天守閣と殿舎が、更に同年10月には茶亭が完成した。築城が終わった伏見城は、本丸の西北に天守閣があり、西方に二の丸、北東部に松の丸、南東部に名護屋丸、曲輪下には三の丸、山里丸等の曲輪を配し、出丸部分を加えると12の曲輪が存在した。『城と秀吉』では「名護屋城の縄張りに類似しており、これが秀吉好みの曲輪配置だったのではなかろうか」としており、伏見城と名護屋城の類似性について指摘している。この時期伏見城の築城と並行して、名護屋城の築城、方広寺の大仏殿建設、大坂城の三の丸と惣構え、そして聚楽第の破却等が行われていた。この事に対して『秀吉の城』によると「土木工事に費やした労力と財力は想像をはるかに超える莫大なものであったろう」とし、この時に豊臣秀吉が費やした普請について評価している。 慶長2年(1597年)5月に天守閣が建設された時に豊臣秀吉が移ってくる。「五日大雨、伏見御城殿守ノ丸へ昨日御移徒」(『義演准后日記』)と登城の様子が窺える。豊臣秀吉は大坂城と伏見城を行き来していたが、晩年は伏見城で過ごすことが多かった。豊臣秀頼と五大老に後事を託し、翌慶長3年(1598年)8月18日伏見城で没した。在城期間は4年であった。
※この「木幡山伏見城時代」の解説は、「伏見城」の解説の一部です。
「木幡山伏見城時代」を含む「伏見城」の記事については、「伏見城」の概要を参照ください。
- 木幡山伏見城時代のページへのリンク