木幡山経塚群(木幡山蔵王経塚)
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「木幡山」の記事における「木幡山経塚群(木幡山蔵王経塚)」の解説
木幡山山頂尾根上に東西に一直線状に並ぶ6基の経塚は出土品から平安時代末期(12世紀)に複数回に亘り造営されたものと推定されている。高さは1メートル前後の小型の積石式で、盗掘のために破損しているものの積石と主体である中央部の石槨はほぼ原型を保つ。いずれも石槨中に経文を埋納したもので、径は2メートルから4メートル、外形は円形4基に方形、長形が各1基と一様ではなく、内部の構造も石槨を地下に設けるもの2基と地上式のもの4基とがあるが、地下式経塚は地上式より以前に造営されたものと考えられる。その存在は以前から知られていたが、発掘調査が行われたのは昭和53年(1978年)で、その際に凝灰岩製外筒破片4個分と方形の湖州鏡、網代地文の円鏡、交釉の陶器と水瓶、三筋壺、土師器などの残欠および破片と短刀、刀子、宋銭が出土した。経塚群中、円形の3号経塚は平板状の石で組立てた箱形石槨を地下に設け、石槨外周に木炭を詰めて積石で蓋をした上に封土を盛ったもので群中最古の経塚と推定され、奈良国立博物館には同経塚出土と考えられる、『法華経』と覚しき8個の経巻の残塊が納められた鋳銅製経筒とそれを包む砂岩製の外筒が所蔵される。これは昭和26年に盗掘されたものというが、経筒と外筒共に銘文は認められない。学術的価値の高い宗教遺跡として福島県史跡に指定されている(昭和54年3月23日指定)。 経塚群の西端、かつては蔵王宮があったという地点の後方に磐座と見られる3つに裂けた花崗岩の立石があり、その基部付近の土中からも土師器や宋銭が多数出土し、また立石前にある小規模な礎石群からは鉄釘が数点出土している。これら出土品も経塚築造に伴う祭祀遺物と考えられるが、立石を修験道の聖地とされる奈良県金峯山(山上ヶ岳)山頂にある蔵王権現湧出岩に見立てて行われた経塚造営に先行する祭祀の遺物であると見ることもでき、いずれにせよ、経塚の経営は末法思想を背景にした法華経に基づく写経や供養といった慣行に伴うものと見られ、天台宗系の寺院に多いことと、木幡山北東麓に当たる川俣町の山麓縁辺に栗和田や西田山、小島等といった経塚が分布することから、経塚の経営を含めて中世期に天台系修験寺院として木幡山を支配した治陸寺の宗勢を示すものと考えられる。
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