指月伏見城遺構
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 14:31 UTC 版)
伏見城の遺構とされる建築は近畿地方の社寺を中心に多く存在しており、そのほとんどが秀吉時代の遺構とされている。しかし、指月伏見城は地震で倒壊し、木幡山伏見城は兵火で焼失しているため、移築の伝承が事実である建物はわずかだと思われる。実際、指月城の遺構であることが裏付けられている西教寺客殿も地震で破壊された残材で構成されており、少なくとも秀吉時代の建築が完存する可能性は低いと考えられる。 2015年(平成27年)6月18日、京都府や大阪府で埋蔵文化財の発掘調査を行う民間の調査会社「京都平安文化財」は、京都市伏見区桃山町のマンション造成地において、秀吉時代の指月城の遺構が出土したと発表した。慶長伏見地震による倒壊後所在不明となっていた同城で、存在の裏付けとなる初の出土となった。出土したのは城の礎となる花崗岩を主材とした石垣の一部南北36mあまりで、石垣下部の1〜2段目部分。石垣西側には最大幅7m深さ2mの並走する堀も見つかっており、堀の中からは慶長伏見地震後に埋却されたとみられる五七桐紋軒丸瓦片や唐草文軒平瓦片も多数出土した。これらの瓦片には金箔が貼られており(金箔押)、いずれも天守など城郭主要部に用いられたものだという。一方で京都市文化財保護課では、この際に見つかった石垣について、実際には指月城の堀を埋め立てた上に建てられた大名屋敷であった可能性を示している。
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