指月伏見城時代とは? わかりやすく解説

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指月伏見城時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 14:31 UTC 版)

伏見城」の記事における「指月伏見城時代」の解説

1593年文禄2年)に入り明との講和交渉動きはじめ、明の使節迎え日本国威見せつける目的と、同年8月3日に拾丸(豊臣秀頼)が産まれ、拾丸に大坂城与えると想定したことで、隠居屋敷大規模な改修が行われることになった文禄3年1594年10月頃より宇治川流路巨椋池分離して伏見導き城の外濠とするとともに城下大坂通ずる港を造り巨椋池には小倉堤を築きその上に街道通して新たな大和街道とするなど大規模な土木工事が行われた。また宇治橋移して指月向島の間に豊後橋としたとの伝えもあり、都から大和伊勢及び西国への人の流れ全て城下呼びこもうとした意図窺える。『戦国堅城』によると「交通の要衝管制する政治・軍事施設として築城された。本拠である大坂朝廷影響力行使する聚楽第(甥で関白の秀次が所在)の間に位置する城として、二元統制を行う秀吉に大変好都合な場所である」としており、隠居屋敷大坂城付随する隠居用の屋敷から秀吉本城へと意図変えた考えられる築城1594年文禄3年)から本格的に始まり普請奉行佐久間政実任命され石材讃岐国小豆島から、木材土佐国出羽国からも調達され同年4月には淀古城から天守移建された。同年10月には殿舎完成し、翌1595年文禄4年)に秀次事件起きると、同年7月には破却された聚楽第からも建物移築され宇治川対岸にある向島にも伏見城支城向島城築城された。 また、1594年文禄3年)末より城下町の整備行われた。「今日惣之屋敷割、浅弾、民法、増右、長大山橘我等躰に仰付けられ候」(『駒井日記 文禄二年閏九月二十六日条』)とあり、浅野長政前田玄以増田長盛山中長俊家臣団屋敷大名屋敷があった。 翌文禄5年1596年)閏7月12日深夜から13日にかけて地震起こったこのころ近畿地方大小地震頻発しており、豊臣秀吉も「なまつ大事」とし伏見城地震対策力を入れていたが、のちに「慶長伏見地震」と呼ばれることになるこの地震はそれを上回る大地震となり、天守の上二層倒壊する大きな損害受けた。『慶長記』によると明使節は閏7月18日、つまり慶長伏見地震から6日後に馬揃えを行う予定だったが中止となった。この時豊臣秀吉伏見城におり、『当代記』によると女﨟73名、中居500名が死亡した豊臣秀吉は無事で、建物としては台所施設健在だったらしくそこで一晩すごした夜が明けて指月伏見城から北東1kmにある高台木幡山に仮の小屋造り豊臣秀吉もそこで避難生活送っている。この地が木幡山伏見城となる。なおこの災害契機としてこの年10月27日には「慶長」に改元された。

※この「指月伏見城時代」の解説は、「伏見城」の解説の一部です。
「指月伏見城時代」を含む「伏見城」の記事については、「伏見城」の概要を参照ください。

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