ポンティアック戦争 開戦

ポンティアック戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/13 15:12 UTC 版)

開戦

ポンティアックの信用置ける肖像画は無いが、しばしば想像をもって描かれた。この絵は19世紀にJohn Mix Stanleyが描いたもの。[26]

戦争の計画

ポンティアック戦争が始まったのは1763年であるが、インディアンが攻撃の計画をしているという噂がイギリス当局に届いたのは1761年であった。オハイオ領土のセネカ族とミンゴ族が、部族連合を作りイギリス軍を追い出そうというワムパム(貝殻玉のビーズで綴られた伝言)の「戦いの帯」を回状を各部族に回した。グヤスタとタハイアドリスがいるミンゴ族は、自分達の土地がイギリス軍の砦に取り囲まれている事態を危惧していた。[27]同じようなワムパムの「戦いの帯」はデトロイトとイリノイ郡でも作られた。[28]しかし、インディアンの結束は進まず、1761年6月にはデトロイトのインディアンがセネカ族の計画をイギリス軍の指揮官に伝えた。[29]1761年9月にウィリアム・ジョンソンがデトロイトで多くの部族との協議を開いた後は、脆弱な平和が維持されていたが、「戦いの帯」は回され続けた。[30]1763年早くに「上の国」がフランスからイギリスに割譲されることを知ったインディアンによって、終に戦いの火蓋は切られた。[31]

オタワ族によるデトロイト砦の攻撃で始まった戦いは、急速に地域全体に広がった。イギリス軍の砦のうち8つが占拠され、他にもデトロイト砦とピット砦が包囲されたが、これらは死守された。フランシス・パークマンの「ポンティアックの陰謀」では、これらの攻撃がポンティアックの作戦による協働行動であったとしている。[32]パークマンの解釈は広く知られているが、この攻撃が全体計画の一部なのか、あるいは全体が「陰謀」であるのかはっきりした証拠がないとする歴史家もいる。[33]

上述したように、インディアンの酋長は「指導者」でも「司令官」でもないから、これらの説は白人の思い込みに過ぎない。今日、白人学者の間で一般的となった見解では、前もって計画されたというよりも、ポンティアックらがデトロイト砦で行動を起こしたという話が「上の国」に伝えられ、既に不満を抱いていたインディアン部族が反抗に加わる動機を与えたことで、蜂起が広まったというものである。イギリス軍の砦に対する攻撃は同時ではなかった。多くのオハイオ領土のインディアン部族は、ポンティアックのデトロイト砦包囲の開始からほぼ1ヶ月は戦いを始めなかった。[34]

パークマンは、ポンティアック戦争がイギリス軍を困らせることを意図したフランス人入植者によって密かに扇動されていたとも信じていた。この考え方は当時のイギリス当局によっても広く支持されていたものであるが、後の歴史家は蜂起にフランス人が関わったという証拠を見つけられなかった(フランス軍の手になるフレンチ・インディアン戦争の時の「戦いの帯」がまだインディアンの村を回っていたということもあり、フランスによる扇動の噂が立った)。フランス人がインディアン部族を掻き立てたというよりも、インディアン部族がフランス人を掻き立てようとしたのだと指摘する歴史家もいる。ポンティアックや他のインディアン部族の「指導者」はしばしば、フランス支配の復活とフランス=インディアン同盟の再現について話していた、ポンティアックは自分の村でフランスの国旗を掲揚することまでしていた。これらのことはすべて明らかに、フランス人もイギリスに対する闘争に加わるように吹き込むことを意図されたものだった。

ポンティアックら「調停役」(酋長)が「フランス支配の復活とフランス=インディアン同盟の再現」について話し合ったとしても何ら不自然なことではない。彼らの行動は部族の意志の反映である。フランス人入植者や交易業者の中にはインディアンの蜂起を支持した者もいたが、この戦争はフランスではなくインディアン部族の目的のためにインディアンによって始められ遂行された。[35]

デトロイト砦の包囲戦

1763年4月27日、ポンティアックはデトロイトの集落から約10マイル (16 km)の場所で部族間協議を開いた(インディアンの社会は合議制である)。ポンティアックは、ネオリンに教えられた聴衆の説得法に従って、オタワ族、オジブワ族、ポタワトミ族、ヒューロン族の多くをデトロイト砦獲得の試みに加わるよう呼びかけた。[36]5月1日、ポンティアックは50名のオタワ族戦士とともに、砦の守備戦力を値踏みするために砦に向かった。[37]フランスの年代記編者によれば、ポンティアックは2回目の部族間協議で次の呼びかけを行ったとされている。

わが兄弟、同士達よ。大切なことは、我々の国を破壊することだけを求める民族を我々の土地から追い出すことだ。我々の同胞であったフランスから得ていたような我々の需要を満たすことは最早不可能になったことは明らかだろう。それ故に兄弟同士達よ、我々は皆敵を打ち崩すことを誓わねばならないし、一時の猶予も許されない。我々を妨げるものはない。守備兵は少ないので我々は目的を達することができる。[38]

ポンティアックたちは急襲によって強固な砦を落とせると期待して、5月7日に武器を隠した約300名の戦士と共にデトロイト砦に入った。しかし、イギリス軍の指揮官もインディアン連合の作戦を熟知しており、武装して攻撃に備えた。[39]インディアンたちは作戦が失敗したことを知ると、簡単な協議後に一旦引き上げ、2日後に砦を包囲した。ポンティアックとその同胞は、砦の外で見つけたイギリス軍兵士や入植者を、女子供をいとわず全て殺害した。[40]ある兵士などは、五大湖地方のインディアン部族の慣習に従って、儀式上の食肉とされた。[41]暴力はイギリス人にのみ向けられ、フランス人入植者は一般に安全であった。最終的に6部族から900名以上の戦士が包囲戦に参加した。

ポンティアック戦争の砦と戦闘

イギリス軍は援軍の到着後に、ポンティアックの宿営地の急襲を試みたが、ポンティアックたちもそれを承知して待ち受けており、7月31日のブラッディランの戦いでイギリス軍を打ち破った。それにも拘わらず、デトロイト砦の状況は手詰まりのままであり、ポンティアックの同胞に対する影響力が薄れていった。インディアン部族の中には包囲を放棄する者が現れ、出発前にイギリス軍と休戦の協定を交わす者もいた。10月31日、ポンティアックはイリノイ郡のフランス人がデトロイト砦を攻める軍に加わることはないと認識し、包囲を解いてモーメー川に移動した。ポンティアックはそこで引き続き、インディアンたちにイギリス軍に対する抵抗を呼びかけ続けた。[42]

奪取された小さな砦

イギリス軍の他の出先がポンティアックによるデトロイト砦の包囲について知る前に、5月16日から6月2日にかけての一連の戦いで、インディアン部族は5つの小さな砦を奪取した。[43]最初に墜ちたのはエリー湖岸の小要塞に過ぎなかったサンダスキー砦であった。この砦は1761年にアマースト将軍の命令で作られたが、土地のワイアンドット族が1762年に「直ぐに焼き払ってしまうぞ」と砦の指揮官に脅しをかけていた。[44]5月16日、ワイアンドット族の集団が協議集会を開く風を装って砦の中に入った。これは9日前にデトロイト砦で採って失敗した戦術と同じであった。ワイアンドット族は指揮官を捕まえ、他の15名の兵士を殺害した。砦にいた交易業者も殺され、[45]戦争の初期に殺された約100名の交易業者のうち最初のものとなった。[43]死体は頭皮を剥がれ、砦は1年前にワイアンドット族が警告したように焼き払われた。[46] セントジョセフ砦(今日のミシガン州ナイルズ)は5月25日にサンダスキー砦と同じやり方で奪取された。指揮官はポタワトミ族に捕まり15名の守備兵の大半は即座に殺された。[47]マイアミ砦(今日のインディアナ州フォートウェイン市)が3番目に墜ちた砦であった。5月27日、指揮官がインディアンの女性に砦の外に誘い出されたところをマイアミ族に銃で撃たれて死んだ。砦は包囲され9名の守備兵は降伏した。[48]

イリノイ郡では、ウィーアテノン砦(今日のインディアナ州ラファイエットから南西に約5マイル (8 km)のところ)が6月1日にウェア族、キカプー族およびマスクーテン族によって奪取された。守備兵は協議のためということで砦の外に誘い出され、20名全員が流血なしで捕虜となった。ウィーアテノン砦近くのインディアン部族はイギリス軍守備隊と良好な関係にあったが、デトロイトのポンティアックのところから来た使者が彼らを攻撃するよう呼びかけた。戦士達は砦の指揮官に対し「他の部族にこうするように強制された」と言って謝った。[49]他の砦とは対照的にウィーアテノン砦の捕虜は殺されなかった。[50]

5番目の砦ミチリマキナック砦(今日のミシガン州マッキノー市)は、急襲によって奪取された最大の砦であった。6月2日オジブワ族が訪問していたソーク族と共にスティックボール(ラクロスの前身)の試合をお膳立てした。前にもそのようなことがあったので、兵士達は試合を見ていた。ボールが打たれて砦の開いている門から飛び込んだ。両軍の選手が雪崩れ込みインディアンの女性によって砦の中に密かに持ち込まれていた武器を手渡された。35名の守備兵のうち約15名が戦闘で殺され、他にも5名が拷問を受けて殺された。[51]

6月の中旬には第二波の攻撃でオハイオ軍の3つの砦が墜とされた。ベナンゴ砦(今日のペンシルベニア州フランクリンの近く)はセネカ族に6月16日頃に墜とされた。指揮官を除き12名の守備兵全員が即座に殺された。その指揮官もセネカ族の憤懣を書き記すことを強いられた後に火炙りの刑に処せられた。[52]ル・ビューフ砦(今日のペンシルベニア州ウォーターフォード)は6月18日におそらくベナンゴ砦を破壊した者と同じセネカ族に襲われた。12名の守備兵の大半はピット砦に逃れた。[53]

陥落した砦では8番目で最後となったプレスクアイル砦(今日のペンシルベニア州エリー)はおよそ250名のオタワ族、オジブワ族、ワイアンドット族およびセネカ族に6月19日の夜、取り囲まれた。2日間は持ち堪えたものの、60名の守備隊のうち約30名がピット砦に戻るという条件で降伏した。[54]しかし、大半は砦を出た後で殺された。[55]

ピット砦の包囲戦

西部ペンシルベニアの入植者は、戦争の勃発後安全を求めてピット砦に逃げ込んだ。550名近い人々で砦はごった返すことになり、しかもその内の200名以上は女子供であった。[56]スイス生まれのイギリス軍指揮官シメオン・エキュイアは、「大変な混雑だったので私は疫病を恐れた。天然痘が流行っていた」と書き残した。[57]ピット砦は6月22日にデラウェア族を中心とするインディアンの攻撃を受けた。砦は防御が優れていたので7月中の包囲を持ち堪えた。一方でデラウェア族とショーニー族の戦士がペンシルベニア深く侵攻し、数知れぬ入植者を捕まえ殺した。ピット砦の東に2つの小さな砦、ベドフォード砦とリゴニエ砦があり、散発的な攻撃をうけたが、奪取されるまでには至らなかった。[58]

イギリス軍のアマースト将軍は、戦前はインディアン部族がイギリス軍に効果的な反抗を行えるとはとても考えていなかったが、この夏の軍事状況はひどくなるばかりであった。アマーストは部下達に捕虜にした敵のインディアンは「即座に殺すこと」という指示を書き送った。ペンシルベニアのランカスターに居て、ピット砦の救援のために遠征隊の準備をしていたヘンリー・ブーケット大佐には、6月29日に次の様な提案をした。「不満を抱いているインディアン部族の間に天然痘を送り込む計画は立てられないだろうか?この際、敵を弱らせるために我々の力の及ぶあらゆる戦術を使うしかない。」[59]

ブーケットは同意し、7月13日にアマーストに返信を書いた。「何枚かの毛布に菌を植え付け、敵の手に入るようにしてみる。もちろん自分には移らないように気をつける。」アマーストは7月16日に好意的に返信した。「毛布という手段でインディアンに菌を移すというのはうまく行くだろう。他にもこの忌まわしい部族を根絶やしできる手段なら何でも使うといい。」[60]

ピット砦に包囲されていた士官達が、アマーストとブーケットがまだ議論している間に、明らかにアマーストやブーケットの命令無しに、既にその試みをやっていたことが分かった。6月24日のピット砦での和平交渉の間に、エキュイアは包囲しているデラウェア族の代表に2枚の毛布と1枚のハンカチを送ったが、それらには天然痘の菌に曝されており、病気がインディアンの間に広まれば包囲を止めさせられると期待していた。[61]

イギリス軍がインディアンを感染させたかどうかは明らかでない。ポンティアック戦争中、多くのインディアンが天然痘で死んでいたので、この試みが成功だったという歴史家も居るが、多くの学者達は現在のその結論を疑っている。理由の一つは、オハイオ・インディアンの中の天然痘の流行が明らかに毛布事件よりも前に始まっていたことである。さらに、ピット砦の外に居たインディアン達が毛布を受け取ってから1ヶ月以上も包囲を続けたことは、明らかに疫病の流行によって影響を受けて居なかったことを示している。(毛布を受け取ったデラウェア族の酋長2人は1ヶ月後も変わらず健康であった。)最後に、天然痘は既にその地域に蔓延していたので、多くの要因でインディアンの村にたどり着いた可能性があるということである。目撃者の証言によれば、病気が蔓延した白人の入植村を襲ったインディアンが病人に接触し、自分の集落に戻る途中に病気をまき散らした可能性があるということである。これらの理由により、歴史家のデイビッド・ディクソンは、「インディアンは多くの感染ルートを通じて恐ろしい病気をうつされたかもしれないが、ピット砦の感染した毛布はその感染ルートの一つに過ぎない」と結論づけた。[62]

ブッシーランおよびデビルズホール

8月1日、ブーケット大佐が指揮する500名のイギリス軍がピット砦に向かっているという報に接したインディアン部族はこれを阻止するために砦の包囲を解いた。8月5日、この2つの軍勢がブッシーランの戦いで会した。ブーケット隊は多くの損害を被ったが、インディアンの攻撃を排除し、8月20日にピット砦を解放した。ブッシーランでのブーケットの勝利はイギリスの植民地でも祝われ、フィラデルフィアでは夜通し教会の鐘が鳴らされた。またイギリス国王ジョージ3世からも賞賛された。[63]

しかし、この勝利の後には手ひどい敗北が続いた。西部の砦の中では最も重要な砦の一つであるナイアガラ砦はそれまで襲われていなかったが、9月14日、少なくとも300名のセネカ族、オタワ族およびオジブワ族が、ナイアガラの滝に沿った補給路で補給部隊を襲った。ナイアガラ砦からも2個中隊が救援に送られたがこれも敗北した。70名以上の兵士と御者がこの戦闘で殺された。イギリス系アメリカ人はこれをデビルホールの虐殺と呼び、イギリス軍にとってはポンティアック戦争の中でも最大の被害を受けたことになった。[64]


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  5. ^ Jennings, Empire of Fortune, 442.
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  33. ^ Peckham, Indian Uprising, 108-10. 歴史家のウィルバー・ジャコブスは、ポンティアックが前もって作戦を立てたというパークマンの説には同意するが、「陰謀」という言葉ではインディアンの憤懣が正当化されないとして、その言葉の使用に反対した。 Jacobs, "Pontiac's War", 83-90.
  34. ^ McConnell, A Country Between, 182.
  35. ^ Dowd, War under Heaven, 105-13, 160 (for French flag), 268; White, Middle Ground, 276-77; Calloway, Scratch of a Pen, 126. ペッカムは、パークマンと同様に、「フランス人によって囁かれた保証」の元にインディアン部族が武器を取って立ち上がったとしているが、両者共にその証拠が希薄であることも認めている。 (p. 105)
  36. ^ Parkman, Conspiracy, 1:200-08.
  37. ^ Dixon, Never Come to Peace, 108; Peckham, Indian Uprising, 116.
  38. ^ Peckham, Indian Uprising, 119-20; Dixon, Never Come to Peace, 109.
  39. ^ デトロイト砦のイギリス軍指揮官グラドウィン少佐が、「ポンティアックの作戦」を警告した情報源について明かしていないので、歴史家は幾人かの候補者を挙げている。 Dixon, "Never Come to Peace, 109-10; Nester, Haughty Conquerors", 77-8.
  40. ^ Dixon, Never Come to Peace, 111-12.
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  45. ^ Nester, "Haughty Conquerors", 86, gives the number of traders killed at Sandusky as 12; Dixon, Never Come to Peace, mentions "three or four", while Dowd, War under Heaven, 125, says that it was "a great many".
  46. ^ Nester, Haughty Conquerors", 86; Parkman, Conspiracy, 1:271.
  47. ^ Nester, "Haughty Conquerors", 88-9.
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  53. ^ Nester, "Haughty Conquerors", 101-02.
  54. ^ Dixon (Never Come to Peace, 149) says that Presque Isle held 29 soldiers and several civilians, while Dowd (War under Heaven, 127) writes that there were "perhaps sixty men" inside.
  55. ^ Dowd, War under Heaven, 128.
  56. ^ Dixon, Never Come to Peace, 151; Nester, "Haughty Conquerors", 92.
  57. ^ Dixon, Never Come to Peace, 151.
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  61. ^ Anderson, Crucible of War, 541-2; Jennings, Empire of Fortune, 447n26. これは未熟な形態の生物兵器がこの地域で試された最初の機会ではなかった。1761年にインディアンはリゴニエ砦の井戸に動物の死骸を使って毒を持ち込もうとした。 Dixon, Never Come to Peace, 153.
  62. ^ Dixon, Never Come to Peace, 152-55; McConnell, A Country Between, 195-96; Dowd, War under Heaven, 190. For historians who believe the attempt at infection was successful, see Nester, Haughty Conquerors", 112; Jennings, Empire of Fortune, 447-48.
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  64. ^ Peckham, Indian Uprising, 224-25; Dixon, Never Come to Peace, 210-11; Dowd, War under Heaven, 137.
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  72. ^ For Bradstreet at Detroit, see White, Middle Ground, 297-98; McConnell, A Country Between, 199-200; Dixon, Never Come to Peace, 227-32; Dowd, War under Heaven, 153-62.
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  97. ^ Dowd, Spirited Resistance, 42-43, 91-93; Dowd, War under Heaven, 264-66.






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