ポンティアック戦争と晩年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/31 02:49 UTC 版)
「ウィリアム・ジョンソン (初代準男爵)」の記事における「ポンティアック戦争と晩年」の解説
1763年、フレンチ・インディアン戦争後のイギリスの方針を不満に感じたインディアンにより、ポンティアック戦争が起こった。彼らが蜂起する前に、ジョンソンはジェフリー・アマーストに、イロコイ連邦との付き合い方、たとえば族長への贈り物をするようにと忠告した。しかし、インディアンたちとの抗争を潜り抜けてきたアマーストはジョンソンの忠告に従わず、最終的に本国へ召還された。代わりに派遣されたのはトマス・ゲイジであった。アマーストの召還はジョンソンの地位を強めた。というのも、インディアン側から和解を要求したからであり、これはジョンソンの専門分野であった。ジョンソンは1766年にポンティアクと条約の交渉に臨み、これで戦争は終わった[要出典]。 1764年の7月から8月にかけて、ジョンソンは約2000人のインディアン、主にイロコイ連邦諸族を従えて交渉した。ほとんどのイロコイ連邦諸族が参戦しなかったにもかかわらず、ジェネシー川(英語版)峡谷のセネカ族はイギリスに対して武力蜂起をし、ジョンソンは彼らをコヴェナント・チェーン同盟に戻すために尽力した。ジョンソンはイロコイ連邦諸族に、戦争に参加したセネカ族相手に戦隊を送るように説得したが、イロコイ連邦諸族は、ジョンソンが望んだほどの戦果を挙げなかった。 ジョンソンは1763年宣言を提議した、これは植民地の西への拡大に対して、より厳しい本国の管理と抑制を求めるものだった。ジョンソンは、1768年のスタンウィックス砦条約で定義された国境の詳細について交渉した。国境を西に400マイル(644キロ)ずらし、イギリス政府が認可したのよりも多くの土地を、自分や他の投資家が得られるようにした。ジョンソンの越権行為は批判されたが、多くの土地投機筋は政府との伝手を持っており、国境の拡大も認められた[要出典]。また、スタンウィックス砦条約では、ペンシルベニア西部とニューヨークの土地をわずか1万ポンドでイロコイ連邦に割譲させた。 インディアンの不満は1770年代に西の部族にも広がった。ジョンソンは晩年を、第二のポンティアック戦争を防ぐための立案に費やした。分割統治を続行し、異なる部族同士が同盟を結ぶのを封じ込めるべく働いた。ジョンソンの最後の仕事は、1774年のダンモアの戦争前に、ショウニ―族にどの部族とも同盟を結ばせなかったことだった[要出典]。
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