ポンティアック戦争とアメリカ独立戦争
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「ロジャーズ・レンジャーズ」の記事における「ポンティアック戦争とアメリカ独立戦争」の解説
1763年4月、オタワ族族長オブワンディヤグ(ポンティアック酋長)はデトロイト砦を攻撃し、包囲戦に持ち込んだ。この戦いは失敗に終わったが、これはインディアンたちに覚醒を促した。その後ナイアガラ砦をはじめとして、イギリスの砦に対して何度か攻撃が加えられたが、デトロイト攻略に失敗したポンティアックは、イリノイカントリーに撤退した。ブラッディランの戦い後は、自分で戦線に出ることはなかったが、イギリス支配への抵抗を奨励し続けた。 このブラッディランの戦いには、ロジャーズ・レンジャーズも参戦していた。1763年7月31日未明、ジェームズ・ダリエル大尉率いる軍勢が、ポンティアックの野営地を目指してデトロイト砦を出発し、縦隊となってペアレンツクリークに架かる橋に差し掛かった。その時、森の中に隠れていたインディアンたちが一斉に銃撃を始めた。三方からの攻撃でイギリス軍は混乱したが、ロジャーズだけは、最初の銃声を聞いて、レンジャーズに防御に着くように命じた。結局軍勢はデトロイト砦に撤退し、その最後尾でロジャーズはうまく相手を切り崩した。このブラッディ・ランの地名は、この戦いで戦死したイギリス兵の血で、ペアレンツクリークが赤く染まったことに由来している。後にロジャーズはこの戦争にちなんで"Ponteach: or the Savages of America"という戯曲を発表した。 レキシントンとコンコードでアメリカ独立戦争が勃発したのを受けて、かつてのレンジャーズはミニットマンとしてイギリス軍と戦った。ロジャーズは戦争後、大陸軍の指揮官、ジョージ・ワシントンに、力になりたい旨を申し出たが、ワシントンは断った。長期のイギリス滞在から戻ったばかりのロジャーズを、スパイではないかと警戒したのだった。この裏切りに激怒したロジャーズは、イギリス軍に合流し、そこでクイーンズ・レンジャーズを編成した。これは後にキングズ・レンジャーズとなった。かつてのレンジャーズの一部の兵は、アメリカ軍として、シャンプラン湖の周辺で、ベネディクト・アーノルドの指揮下にあった。 カナダのクイーンズ・ヨーク・レンジャーズ(英語版)、アメリカ陸軍第119野砲連隊(英語版)、アメリカ陸軍第75レンジャー連隊はロジャーズ・レンジャーズの流れを受け継いでいると主張している。また、MLBのテキサス・レンジャーズのレンジャーズという愛称は、南北戦争後に、治安維持のために作られた、ロジャーズ・レンジャーズを模した公安組織の愛称から取られている。グリーン・ベレーはロジャーズ・レンジャーズの緑の帽子と服の伝統を受け継いでいる。 1775年、大陸会議は独立戦争に備えて、精鋭のライフル兵による8つの中隊を作った。1777年、ダン・モーガンが指揮を執る猟兵たちはコープス・オブ・レンジャーズとして知られた。「スワンプ・フォックス」フランシス・モリソンは、マリオンズ・パーティザンスとして知られる、また別のレンジャー部隊を独立戦争時に組織した。
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