ブッシーランおよびデビルズホール
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 01:32 UTC 版)
「ポンティアック戦争」の記事における「ブッシーランおよびデビルズホール」の解説
8月1日、ブーケット大佐が指揮する500名のイギリス軍がピット砦に向かっているという報に接したインディアン部族はこれを阻止するために砦の包囲を解いた。8月5日、この2つの軍勢がブッシーランの戦いで会した。ブーケット隊は多くの損害を被ったが、インディアンの攻撃を排除し、8月20日にピット砦を解放した。ブッシーランでのブーケットの勝利はイギリスの植民地でも祝われ、フィラデルフィアでは夜通し教会の鐘が鳴らされた。またイギリス国王ジョージ3世からも賞賛された。 しかし、この勝利の後には手ひどい敗北が続いた。西部の砦の中では最も重要な砦の一つであるナイアガラ砦はそれまで襲われていなかったが、9月14日、少なくとも300名のセネカ族、オタワ族およびオジブワ族が、ナイアガラの滝に沿った補給路で補給部隊を襲った。ナイアガラ砦からも2個中隊が救援に送られたがこれも敗北した。70名以上の兵士と御者がこの戦闘で殺された。イギリス系アメリカ人はこれをデビルホールの虐殺と呼び、イギリス軍にとってはポンティアック戦争の中でも最大の被害を受けたことになった。
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