民部省
民部省(律令制)
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律令制下の八省の一つ。和名は「たみつかさ」。財政・租税一般を管轄し諸国の戸口、田畑、山川、道路、租税のことを司る。財政官庁として他に大蔵省があったが租税や租税関係の戸籍はこちらが取り扱ったため大蔵省よりも重視された。ちなみに戸籍のうち姓氏などは治部省の管轄である。 ただし、貞観4年7月27日付宣旨(『類聚符宣抄』巻六)によって、官物免除を除く諸国から中央への申請は全て太政官で決定してそのまま太政官符にて諸国に直接通達する(官物免除は従来通り、民部省符を合わせて発給する)とされ、その規定が『貞観式』以後にも継承されたため、以後民部省が関わる職務に関する決定の多くは太政官が扱うこととなり、民部省は地方に関する事務処理のみを扱うこととなった。
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民部省(明治時代)
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明治2年7月8日(1869年8月15日)、それまでの官制の大改正により民部官が改組される形で太政官に設置された省庁の一つで、国内行政を管轄した。翌月の8月11日(1869年9月16日)に大蔵省と合併。明治3年 (1870年) 7月10日にはまた民部省と大蔵省が分離。 詳細は「改正掛」を参照 明治2年11月18日(1869年12月20日)に民部省に改正掛(かいせいがかり)が設置された。 漸進論的改革を唱える岩倉具視、大久保利通一派(薩摩藩)と急進論的改革を唱える三条実美、木戸孝允一派(長州藩)の対立が主な原因であり、徴税(民部省)と財政(大蔵省)機構の一体化による中央集権体制の確立を主張する木戸孝允一派の官吏が強く推進した結果である。地租改正の方針について、民部省は地方民の窮状に接して、その減税要求をいれようという立場に立ったのに対し、大蔵省は財政支出の増加に対処して収入の確保を必要と考えていたからである ただし、形式上は両省とも存続され、卿以下少丞以上の幹部が両省の役職を兼ねる(例えば、民部卿兼大蔵卿・松平慶永、民部卿兼大蔵卿・伊達宗城、民部兼大蔵大輔・大隈重信、民部兼大蔵少輔・伊藤博文、民部大丞兼大蔵大丞・井上馨など)ことで統一されたため、「民部大蔵省」とも称された。 一方、大久保利通・広沢真臣・副島種臣・佐々木高行の4参議が地方官の支持を受けて 再分離を求めた。その結果、明治3年7月10日(1870年8月6日)に大久保が主導して両省の再分離が決定された。だが、大久保の主張した旧幕臣官吏の追放 が認められず、租税については一括して大蔵省が担当することになったために両者の対立が続いた。 1870年9月4日(明治3年8月9日)に社寺掛を設け、旧暦閏10月20日に寺院寮と改める。その後、明治3年閏10月20日(1870年12月12日)に殖産興業を推進する工部省が民部省から分離され、明治4年7月27日(1871年9月11日)に改めて、民部省は大蔵省に合併されて廃止された。
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