TF型の開発
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/06/14 01:37 UTC 版)
「ブラックバーン ファイアブランド」の記事における「TF型の開発」の解説
TF.Mk.II型は純粋な戦闘機であるファイアブランドを戦闘雷撃機(TF)として再設計し、魚雷を搭載するために主脚の間を広げたのが最大の変更点である。なお、この機体のエンジンはセイバーIIIのままである。この型は1943年2月に空母イラストリアスで着艦試験に使用したのち事故を起こしたプロトタイプ2号機(先述した1942年6月に飛行したもの)が改造されたものが試作機となっている。1943年3月31日に初飛行し、12機のみが生産され海軍第708飛行隊が試験部隊としてこの機体を受け取った。なお、エンジンはセイバーエンジンのままである。 1943年12月21日、当初の予定通りエンジンをセントーラスVIIに換装したTF.Mk.III型の原型機が飛行したが問題が発生した。このエンジンはセイバーIIIエンジンよりもトルクが大きく、そのため離陸時の方向安定性が悪化し、空母で運用を考えた場合許容できる状態ではなくなったため、改良が必要となった。そのためMk.III型は原型2機の量産型27機のみの生産にとどまっている。なお、この原型2機はそれ以前の型の機体を改修したものであるともいわれるが、いまひとつ不明である。ファイアブランドはセイバーエンジン搭載時から操縦性が悪く、過去の型においても改修を重ねていたものの完全には改善されていなかった。そのため、続くMK.4型ではこれらもあわせて改良されることになった。 結局その改良が済んだTF.MK.4型(この型から型番号はアラビア数字に変更)の初飛行は1945年5月17日にまでずれ込んでしまった(この改良では垂直尾翼、方向舵の拡大といった問題点の解決のほかダイブブレーキの装着、魚雷の懸架方式の変更などの設計変更も行われた。操縦性はかなり改善されたものの、その対価は就役の遅延という代償で支払うことになり、これは結果的に非常に高い対価となった)。本来相手となるはずであったドイツは去る5月7日に連合軍に降伏しており、残る日本ももはや虫の息であった。しかも配備が始まったのはさらに遅く、1945年9月1日であった(受け取ったのは第813飛行隊。この飛行隊はその後もMk5型などを受け取り、ファイアブランドを運用している)。そして日本は8月に降伏していたため、1939年から6年もの歳月をかけて開発を進めていたファイアブランドに活躍の場はもはやどこにも残されてはいなかった。この型は102機が生産されたが、うち40機程度は続くTF.Mk.5型に改造されたという。 最終型であるTF.Mk.5型はセントーラスXI型エンジン(2,520hp)に換装したほか細部を変更した型である。またTF.Mk.5A型という動力式エルロンを搭載した型も存在しMk.5およびMk.5Aあわせて68機が生産されたという。しかし、配備が始まったときにはこの機体はすでに不要となっており1947年には生産が終了、海軍からは1953年頃に空母および第一線任務から姿を消し(前線の2航空隊はワイバーンに更新)、ほとんどの機体はスクラップとして廃棄された(一部はカタパルト試験のために無人のまま撃ち出されそのまま処分されたものや、消火訓練の的にされたものも存在するという)。
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