ILPと第三インターナショナル
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「独立労働党」の記事における「ILPと第三インターナショナル」の解説
第一次世界大戦が1918年11月に終結すると、第二インターナショナルが事実上再結成。ILPがこの再建された第二インターナショナルと手を組むか、他の国際組織と連携するかで問題となった。 翌年1月にはモスクワから第三インターナショナル結成の呼び掛けがなされ、ILPの急進派に対して大きく訴える所となる。ただしILPの党員の大半は、旧第二インターナショナルが第一次世界大戦支持を鮮明にした事で失望しており、ILP自体も1920年春、公式に脱退した。 またILP執行部、就中ラムゼイ・マクドナルドやフィリップ・スノーデンも、コミンテルン加入に難色を示している。しかしILPの急進派はコミンテルンに加入すべく、ILP左派と呼ばれる党派を立ち上げた。同派はグラスゴーにて、4ページ組の隔週刊紙『インターナショナル』の発行を開始。 第二インターナショナルとの関係を絶った事に加え、1920年に開かれたILPの年次総会では、包括的な国際組織の樹立を視野に入れ、スイス社会党との関係を深める。 同年5月21日には、ILP議長のリチャード・ウォールヘッド及び国民評議会のメンバーであるクリフォード・アレンが、コミンテルン宛に質問状を送付。コミンテルン執行委員会(ECCI) はプロレタリアート独裁及びソビエト体制のイギリスへの適用についての立場や、普遍的な原理としての軍事力の必要性に関する見解を求められた。 同年7月のコミンテルンからの返答は明白であった。組織内に共産主義者がいる事は認識しているが、「フェビアン協会やラムゼイ・マクドナルド、フィリップ・スノーデン」のように、嘗て「議会制民主主義という古臭い概念」を活用したり、労働運動で「低劣な譲歩や妥協」を行った者とは連携しないというのである。返答は以下の通り。 これらの指導者は広範な未熟練労働者や、粉骨砕身して働く貧困層との連携をせず、資本家の搾取及びプロレタリアートの革命的目標が明白となっている。彼らにとっては、資本家が労働者を取引相手と同様に扱っているため、労働者階級も資本と同等の権利を確保したように思えただろう。また、自身の社会的立場も安泰で、物質的にも恵まれているため、平和的な中流階級の生活という、薔薇色の展望を通じて世界を見ている。プロレタリアートの革命的な闘争によってブルジョアジーとの平和的な取引に乱れが生じているため、プロレタリアートの革命的目標の敵なのである。 ECCIは「独立労働党内の共産主義者」に直接訴える事とし、「イギリスの革命勢力は独立労働党から離れ」、イギリス社会党や社会主義労働党の共産主義者や、ウェールズ及びスコットランドの急進派と連携するよう忠告。「イギリスひいては全世界の労働者階級の解放は、単一の共産党を形成するイギリスの共産主義者に掛かっている」と締め括った。 ILP年次総会におけるコミンテルン加入の呼び掛けは、1921年に頂点を迎えるものの、党支部による投票の結果、圧倒的多数で否決されている。この過程で経済学者のエミール・バーンズやジャーナリストのラジャニ・パーム・ダット、議会議員のシャプルジ・サクラトヴァラら急進派が脱党、1920年8月にイギリス共産党(CPGB)を立ち上げる事となる。 第二インターナショナルの社会改良主義政策と、コミンテルンの革命的政策との間に位置していたILPの「中道主義」により、1921年から1923年にかけて、ヨーロッパの多くの社会主義団体が第二半インターナショナルへ加入。なお、ILP自体は1923年から1933年までの間、労働社会主義インターナショナルの加盟政党であった。
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