HMS Repulse (1916)とは? わかりやすく解説

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レパルス (巡洋戦艦)

(HMS Repulse (1916) から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/03 08:48 UTC 版)

レパルス (HMS Repulse) は[3][4]イギリス海軍巡洋戦艦[注釈 1]日本語ではリパルスと表記することもある[6][注釈 2]レナウン級の2番艦である[注釈 3][注釈 4]Repulseとは「撃退、反撃」の意[注釈 5]第一次世界大戦中の1916年(大正5年)6月に就役したが[注釈 2]、活躍する機会はなかった[8]海軍休日時代、イギリス海軍の巡洋戦艦3隻(フッド[10]レナウン、レパルス)で巡洋戦艦戦隊英語版を編成していた。


注釈

  1. ^ 戰艦“レナウン Renown[5] 全要目{排水量32,000噸 速力31.5節 備砲38糎砲6門 10糎砲12門 魚雷發射管2門(水中53糎) 起工1915年1月 竣工1916年9月 建造所フエヤー・フヰルド造船會社} 同型艦“レパルス Repupse但し10糎砲15門 魚雷發射管10門
     この2隻が起工より竣工に至る迄僅々1年半餘を費してゐるのみであることは當時が世界大戰の酣戰期であつた爲である。全長239.89米、幅31.29米、平均吃水8.12米。速力31.5節はこの2艦が巡洋戰艦として計畫されたものであつたがためである。そして主砲の38糎砲を僅か6門としたのも高速力の犠牲である。この高速力に要する軸馬力は實に112,000馬力である。カタパルトは1基。1926年に一度改装した。以上英國海軍の有する主力艦は計15隻、排水量合計474,750噸。ワシントン會議に依る保有量は15隻525,000噸である。
  2. ^ a b 列國艦艇一覧表(昭和十一年十二月三十一日調)[7] 〔 國別:英國|現状:既成|艦名:リパルス|排水量:三一,〇〇〇|速力:三一.五|備砲 主砲:三八-六/副砲:一〇-一五|魚雷發射管(糎)數:水中(五三)水上-二/八|竣工年月日(西暦):一六.八 〕/〔 國別:英國|現状:既成|艦名:リナウン|排水量:〃|速力:〃|備砲 主砲:〃/副砲:一〇-一二|魚雷發射管(糎)數:水中(五三)-二|竣工年月日(西暦):一六.九 〕
  3. ^ 戰艦“レナウン Renown[8] 全要目{排水量32,000噸 速力31.5節 備砲38糎砲6門 10糎砲12門 魚雷發射管2門(水中53糎) 起工1915年1月 竣工1916年9月 建造所フエヤー・フヰルド造船會社} 同型艦“レパルス Repupse 但し10糎砲15門 魚雷發射管10門。
     時あたかも世界大戰が酣であつたのでこの2隻は起工より竣工に至る迄僅々1年半餘を費してゐるのみである。レパルス、レナウンの二艦は世界戰爭の最中僅か一年餘りで急ぎ建造されたもので、この目的は砲2門を減じても31.5節の快速力を得んとしたために外ならない。しかしこの2隻が活躍する前に戰爭は終焉になつた。全長239.89米、幅31.29米、平均吃水8.12米でレパルスは建造後更に水上發射管8門を増して10門とした。10糎副砲が3聯装になつてゐるのも珍しい。1934年來改装中である。
  4. ^ 英吉利 巡洋艦リナウン(一九一六年竣工)[9] 排水量三二〇〇〇噸、時速二八節。一九一四・五年の海軍豫算に依り上程。一九二三・六年の間に修理を受く。寫眞は英本國艦隊大演習の際、ヂブラルタル港に停泊中を巡洋戰艦フードより見たるもの。/巡洋戰艦タイガー(一九一四年竣工)排水量二八五〇〇噸、時速三〇節。除籍されたるものゝ如し。/巡洋艦レパルス(一九一六年八月竣工)排水量、時速共に同型艦リナウンに同じ。目下大修理中。
  5. ^ レパルス (Repulse) の艦名を冠したイギリス艦船は多数存在する。
  6. ^ 八、マレー沖海戰[17] 開戰匆々ハワイ海戰においてアメリカ太平洋艦隊主力はわが海軍精鋭の敢行した大奇襲作戰によつて脆くも潰え去つたのであるが、マレー方面においてはわが上陸作戰を阻止すべくイギリスが世界にその最新鋭を誇る戰艦「プリンス・オブ・ウエールズ」と高速戰艦「レパルス」の出動となつたのである。この二戰艦がマレー半島沖を北上中なる旨の報告が哨戒中の潜水艦からもたらされたのは十二月九日の午後であつた。航空部隊は直ちに基地を出撃したが、その日は惡天候のためつひに敵艦隊を發見することが出來なかつた。十日午前三時四十分潜水艦から敵艦がシンガポールに遁走中なる旨の報があつた。かくてわが航空隊は暁方より索敵をつゞけたが、つひに午前十一時四十五分、北緯四度、東經百三度五十五分の點において敵主力が驅逐艦三隻を從へて航行中を發見、午前零時四十五分爆撃機隊の猛撃は開始された。かくてイギリスが「不沈戰艦」として誇るプリンス・オブ・ウエールズ及びレパルスの二艦と大型驅逐艦一をマレー沖の藻屑と化せしめ、イギリス東洋艦隊の主力を潰滅せしめたのである。さきのハワイ海戰の戰果とともにこの戰果は世界戰史上その例を見ないものである。/プリンス・オブ・ウエールズ號(東洋艦隊司令長官トーマス・フイリツプス坐乗、艦長J・C・リー大佐)要目=一九四一竣工、排水量三万五千トン、速力三十ノツト、主砲十四インチ砲十門、高角機銃二十五聯装三基、二十聯装一基、八聯装空ポムポム砲四基、搭載機四機/レパルス號(艦長J・G・テナント大佐)要目=一九一六年竣工(一九三六年改装)排水量三万二千トン、速力二十九ノツト、主砲十五インチ砲六門、副砲四インチ砲十二門、高角砲四インチ砲八門、二十一インチ魚雷發射管八基、搭載機四機。
  7. ^ 本艦などと共に建造予定だったレジスタンス (HMS Resistance) は建造中止になった。
  8. ^ レナウンとレパルスでは、副武装に若干の差異がある[8]
  9. ^ イギリス海軍は巡洋戦艦タイガー (HMS Tiger) も保有していたが[9]ロンドン海軍軍縮会議で破棄され、1931年(昭和6年)に除籍、翌年売却された[21]
  10. ^ 1924年(大正13年)4月25日、豪州滞在中にワシントン海軍軍縮条約にともない処分される巡洋戦艦オーストラリア (HMAS Australia) の自沈に立ち会った。
  11. ^ レパルスが修理中の1935年(昭和10年)1月下旬、巡洋戦艦戦隊(司令官シドニー・ベイリー提督)のフッドとレナウンが衝突事故を起こし、関係者が軍法会議にかけられている[27]
  12. ^ 七、艦船の役務變更[28] 艦隊の地中海集中によつて一時混亂のあつた後、地中海竝に内國艦隊の主力艦の配備は、二年以上前に決定し公表された通りに實行に移された。即ち巡・戰艦隊は地中海に移され、巡・戰フッドは大修理後の再就役艦として十月十日にポーツマスを出港した。而して地中海艦隊の次席司令官ブレーク中将の旗艦となつた。又リパルスは大修理完成後、六月に地中海艦隊に編入され、代つてリナウンが大修理に著手した。戰艦に就ては大修理に關係なきクヰンエリザベス級の各艦が今地中海に在り、ローヤルソヴェレーン級は内國艦隊に編入されてゐる。(以下略)
  13. ^ a b 英國皇帝と其の海軍[29] 本年皇帝は海軍關係の事に對して多くの時を費された。夏の初め、皇帝が加奈陀を訪問される豫定が決定したとき軍艦レパルスを御乗艦に指定される筈になつてゐた。そこで同艦内に於ける将官室などは、皇帝竝に随員の人々の住居に適する如く改造された。會々近ごろの近代化改装に於て高角砲の配置を變更した爲に、餘分の部屋を造るだけの餘裕が出來てゐたので、戰闘能力を阻害しないで、随員の住居が得られた譯である。/ 然るに國防上重要なる艦隊の一艦なるレパルスを遠くへ派遣することに就て或る有力なる人々の反對があつた。それは姉妹艦のリナウンが尚ほ未だ改造工事中に属してゐるので使用が出來ないし、一方に於て國際關係は頗る混亂状態にあるからである。(略)即ち四月に至つて、首相は海軍の反對を押切つて、レパルスを本國に留め、加奈陀太平洋汽船會社の客船エムプレス・オブ・オーストラリアを御乗船に指定することを發表した。(略)
     五月六日、皇帝皇后は、前例に從つてポーツマスから乗船された。エムプレス・オブ・オーストラリアは 巡洋艦サザムトン、グラスゴー(エドワード・コリンズ少将、サザムトンに坐乗)、及び巡戰レパルスに依つて護衛せられた。海軍中将サァ・グッドレー・ノォース提督は皇室ヨットの指揮官を承り、此の行に陪し、兼ねて客船及び護衛艦の總指揮をも行つた。是等がスピット・ヘッドを離れたとき、空軍の沿岸航空隊の飛行機が敬禮を行つた。
     右の行程船隊がワイト島を廻つて海峡を西方に向つたとき内國艦隊に出會した。艦隊は二列縱陣に並び、其の一艦ネルソンには司令長官、大将チャーレス・フォーブの将旗が掲げられてあつた。艦隊は廿一發の皇禮砲を放ち、且つ嚮導艦サザムトンが艦隊の列間に入るに際して登舷艦式を行つた。同時に艦隊の兩列は外方に反轉し、次で十八浬の速力にて、皇帝船隊の兩側に接近し、いづれも二縺の距間を置いて進んだ。艦隊の殿艦がエムプレス・オブ・オーストラリアの正横に來るや、艦隊は速力を一〇浬に緩め、一方皇帝船隊はレパルスを殿艦としてゐたが、一八浬に増速した。斯くて御乗船が艦隊各艦を追越すとき、是等の艦によつて萬歳の祝聲が發せられた。然る後、皇帝船隊は太陽の沈む西の方へと、大航海の一歩を踏み入れて影を失うた。/ レパルスは三日間だけ皇帝船隊として随伴し、其の後は殘りの船隊と別れて歸國した。(以下略)
  14. ^ アドルフ・ヒトラー総統の懸念により[39]、ドイッチュラントは1939年(昭和14年)11月15日付でリュッツオウ (Lützow) と改名していた[40]
  15. ^ レパルスは出撃準備が間に合わず、巡洋戦艦戦隊司令官のホイットワース英語版少将は姉妹艦レナウンに将旗を掲げて先に出撃した[50]
  16. ^ テナント大佐は第二次世界大戦開戦時の海軍大臣補佐官で、ダンケルク撤退戦ダイナモ作戦)では陣頭に立って活躍した[11]
  17. ^ リュッチェンス戦隊と最初に遭遇したのは重巡サフォーク (HMS Suffolk, 55) だが[86]、無線の性能が落ちていて本国では誰も受信していなかった[72]。このため、イギリス海軍はノーフォークからの無電で初めてビスマルクの行動を直接確認した[87]
  18. ^ トーヴィー戦隊は5月22日夜にスカパ・フローを出撃し[88]、5月23日夜の時点でリュッチェンス戦隊の南東550浬の洋上を航行していた[89]。フッド轟沈の情報を得てイギリス本土を出撃したわけではない。
  19. ^ 結局ハーミーズはZ部隊に同行しなかったので、直掩戦闘機を欠いたウェールズとレパルスが呆気なく沈没する一因となった[106]
  20. ^ 第一航空部隊指揮官松永貞市少将(第二十二航空戦隊司令官)が指揮していた[121]
  21. ^ 水平爆撃を行った白井中隊は、対空砲火で被弾した1機が基地へ帰投、白井中隊7機は高度を4,000mにして二度目の水平爆撃を実施した[126]。攻撃後、別の1機が被弾してソクトランに不時着した[127]
  22. ^ 元山空第2中隊の高井貞夫大尉は、レパルスが味方の戦艦金剛に見えてきたと回想している[128]。前夜、日本軍陸攻部隊は南遣艦隊旗艦鳥海を敵艦と誤認して夜間雷撃を敢行しかけており[129]、敵味方識別は重要であった[128]
  23. ^ なお旗艦ウェールズは左舷後部(艦尾)に命中した魚雷で大被害をうけたが[130]、それから45分間もレパルスに連絡しなかった[125]
  24. ^ マレー沖海戰[138] 英の東洋艦隊早くも茲に潰滅す。/十二月十日 マレー東岸クワンタン沖に我が爆撃機、雷撃機隊は英が不沈戰艦と傲語するプリンス・オブ・ウエールズ及び戰艦レパルスを捕捉して挺身猛撃、海鷲獨特の必中彈を浴びせてこれを轟撃沈せしめた。
    レパルス(上)プリンス・オブ・ウエールズの最後―午後零時四十三分撮影。レパルスは命中彈で氣息奄々、午後二時二十九分轟沈。プリンス・オブ・ウエールズは艦中央から艦尾にかけ數發の命中彈をうけて、暫時遁走せるも、同二時五十分、英東洋艦隊司令長官サー・トーマス・フィリツプスを乗せたまゝ大爆發を起して沈没。
  25. ^ 死亡(将校27名、兵486名)、生存(将校42名、兵754名)[141]

出典

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「HMS Repulse (1916)」の例文・使い方・用例・文例

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