GT スペースフレーム時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/25 06:38 UTC 版)
「IMSA GT選手権」の記事における「GT スペースフレーム時代」の解説
1984年、すべてのGT車は、車がどのカテゴリーかを識別するために、大きな正方形のデカールを表示する必要があった。GTU車は、白地に黒のU、GTO車は黒地に白のO文字だった。他に標準のIMSA GTデカールもあった。 1980年代の規定の重要な変更の1つは、GTUの排気量2.5Lの制限が3.0Lに引き上げられ、GTOの最大排気量6.0Lの制限が引き続き適用された。 3Lの最低重量は1,900 lb (860 kg)。一方、6.0Lの車は2,700 lb (1,200 kg) だった。イコールコンディションにするために、2バルブターボチャージャーの重量は15%増加し、4バルブターボチャージャーの重量は20%増加する必要があった。電子制御燃料噴射が一般的になったが、グラウンド・エフェクト・カーはまだ禁止されていた。 ステアリング、ブレーキ、トランスミッション、サスペンションはコンストラクターに任された。より大きく、強力なエンジンは、ホモロゲーション規定の下で許可された。バルブ、ポート、スパークプラグの数は変更することは出来なかった。 AAR・トヨタチームは、トヨタが米国市場向けに第4世代のセリカを発表し、チームが最初にGTOカテゴリに参入したときに、(GTUタイトルを1回も獲得していなかったにもかかわらず) ルールに関する問題に遭遇した。チームは、IMSAにルールを変更するように説得し、それによって車が元々のドライブトレイン以外で再設計されたシャーシを使用し、レースできるようになるまで、前輪駆動車でレースする必要があるという可能性があった。AARの希望どうりに、IMSAはルールを変更し、車は後輪駆動車に改造された。この車の特徴の1つは、サファリラリーで優勝したグループBの前身である、4T-GTEエンジンで、475 hp (354 kW)を発生した。クリス・コード、ウィリー・T・リブス、デニス・アースなどによってドライブされたこのマシンは、1987年日本車初のGTOクラスタイトルを獲得、チームがGTPクラスに移行するまで、GTOクラスで勝利した。他チームもこれに従い、シボレー・ベレッタ(トランザムシリーズ)やマツダ・MX-6 (IMSA GTU)などの注目すべき車を使用した。 セリカは、初期のGT派生車から独立した数少ない車の1つだった。フルスペースフレームシャーシで、本格的なレースカーになった。1987年までに、このカテゴリーはファクトリーチームによって支配されるようになり、テストセッションが一般的になり、ルールも彼らを拒否せず、歓迎する様に調整された。フェンダーを広げてトレッドを79インチ (2,000 mm)まで増やすことはできるが、車は生産車の形状を維持する必要があった。 ほとんどのチームが取り外し可能で修理が簡単なグラスファイバーを好んだため、ボディの材質に制限は無かった。(車の生産時から残るのパネルは、スチール製のルーフだけだった)。 ルールを利用した車では、アウディ・90があった。その高度なクワトロ四輪駆動システムで、車は1989年シーズンを支配する可能性があった。車自体はうまく機能したが、2つのファクトリーチームからの激しい競争に直面した。ラウシュ・レーシングのマーキュリー・クーガーXR7 、とクレイトン・カニンガムレーシングの日産300ZX でこれらが15戦のうちの7勝を挙げた。アウディはシーズン序盤の耐久クラシック(デイトナとセブリング)は参戦しなかった。その結果、ハンス・ヨアヒム・スタックがドライブしたが、ドライバー、マニュファクチャラータイトルを逃した。 一連の勝利を記録した他メーカーはマツダだった。マツダ・RX-2とRX-3が一定の成功を収めた後、マツダ・RX-7は1979年と1982年から93年まで12年連続でデイトナ24時間レースでGTUクラス優勝した。また、1980年から1987年まで8年間連続でIMSA GTUチャンピオンを獲得した。さらにRX-7は、1990年9月2日に100勝目の勝利を収め、他のどのモデルの車よりも多くのIMSAレースで優勝した。3ローター搭載のGTOクラス、最終的には4ローター搭載のGTPクラスにも進出、1995年までにIMSA合計117勝という輝かしい戦績を残した。
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