8世紀から19世紀のアフリカ
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「アラブ人の奴隷貿易」の記事における「8世紀から19世紀のアフリカ」の解説
1998年4月、Elikia M’bokoloはル・モンド・ディプロマティークでこう述べた。「アフリカ大陸は、すべての可能な経路でその人的資源を流出した。サハラ砂漠を越え、紅海を抜け、インド洋の港から大西洋を越えて。イスラーム教徒国家の利益のための奴隷貿易は最低でも10世紀に渡った(9世紀から19世紀)」彼は続ける。「400万人の奴隷が紅海経由で、また別の400万人がインド洋のスワヒリ港経由で輸出された。もしかしたら900万人がサハラ横断キャラバン交易路で、(著者によれば)1100万人から2000万人が大西洋経由で輸出された」。 8世紀、アフリカの北はアラブ人やベルベル人によって支配されていた。イスラーム教はナイル川や砂漠の道沿いに南下した。 サハラ砂漠は人口がまばらであった。しかし、古典時代から食塩貿易(塩の道en:Salt Road参照)や黄金、奴隷、布や灌漑で得られる農作物の売買で生計を立てる都市があった。ティアレットやウアラタや シジルマサやズウェイラ (Zaouila, ar:زويلة) などである。 中世では、サハラ辺縁アフリカはアラビア語でBilād al-Sūdānつまり「スーダン(黒い人)の住む地」(「歴史的スーダン」とも)と呼ばれた。 その地は北アフリカやサハラ・アフリカに肉体労働の人材を供給した。この地域は、ガーナ帝国、マリ帝国、Kanem-Bornu Empireやフラニ族の王国やハウサ諸王国によって支配された。 東アフリカでは、紅海とインド洋沿岸は現地イスラーム教徒に支配されており、アラブ人は、沿岸の商人として重要だった。 ヌビアは古典時代奴隷の「供給地」であった。エチオピア沿岸、とくにマッサワやダフラク諸島の港は長きに渡り、内陸からの奴隷の輸出のハブであり、アクスム王国時代も同じだった。港とほとんどの沿岸部は大部分がイスラーム教徒であり、港そのものが多くのアラブ人やインド人商人の家であった。 エチオピア帝国のソロモン朝en:Solomonic dynastyは、西部国境地帯やイスラーム教徒地帯の新征服地や再征服地からニロート人 en:Nilotic 奴隷を輸出した。アダル・スルタン国のようなソマリ人やアファル人en:Afar peopleイスラーム教徒のスルタン国も奴隷を輸出した。アラブ人もインド洋の東南海岸に奴隷貿易拠点を設け、ザンジバルの群島や現在のタンザニアの海岸沿いにあるものが目立つ。東アフリカとインド洋は、19世紀まで東方奴隷貿易の重要な地域であり続けた。リビングストンとスタンリーがコンゴ盆地内部を横断し、そこの奴隷制の大きさを発見した最初のヨーロッパ人である。アラブ人のティップー・ティプは影響力を拡張し多くの人々を奴隷にした。ヨーロッパ人がギニア湾に定住すると、サハラ横断奴隷貿易は重要さを減じた。ザンジバルではのちに奴隷制の廃止が1897年にスルタンHamoud bin Mohammed のもと廃止された。
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