3度目のマラソンとロンドン五輪
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「福士加代子」の記事における「3度目のマラソンとロンドン五輪」の解説
3度目のマラソンは、ロンドン五輪女子マラソン選考レースである2012年1月29日の大阪国際女子マラソンへ、4年前の同大会で19位に終わった雪辱をかけ、今回国内招待選手として挑んだ(マラソンコースは前回出場時と変更箇所あり。当初野口みずきとの直接対決が話題を呼んだが、野口は左太股裏の炎症で欠場、同年3月11日の名古屋ウィメンズマラソンにスライド出場することを表明)。福士はスタートから高速ペースの先頭集団についていき、中間点を過ぎてからは優勝した重友梨佐(天満屋)とのマッチレースとなったが、26km地点を過ぎた辺りから動きが悪くなり徐々に失速。30kmを過ぎた頃には重友に完全に引き離され、ペースダウンした所を後続の選手に次々と追い抜かれる。結局2時間37分もかかって9位(当初、2着のタチアナ・ガメラシュミルコがドーピング違反・失格により8位に繰り上げ)と敗れ、北京五輪に続いてロンドン五輪も女子マラソン日本代表選出は絶望的となった。レース後に「ちょっとエネルギー不足でしたかね。25、6キロくらいで足が重いなと思っていた。また失敗しちゃいました」とコメントした。 レース後のインタビューで福士は「レースから1週間ほど前に体が少し重いと感じ、軽い減量のつもりで食事を減らしたが、それが結果的にスタミナを削る要因になってしまった」と語り、今回の敗因が調整ミスである事を認めている。ロンドン五輪について問われると「出るとするなら(立場的に)遠回りにならないトラックでしょうね」と述べた。マラソンについては今のところ考えていないが、今後も機会があれば挑戦するとした[要出典]。 2012年は前回の北京五輪同様に、長距離走種目でロンドン五輪を目指し日本選手権に出場。同年6月8日の10000mでは、残り1000m辺りまで先頭を引っ張ったが、その後すぐ後ろについていた吉川美香(パナソニック)のラストスパートには引き離され、優勝した吉川に次ぐ2位に甘んじるも、A標準記録突破の31分43秒25でフィニッシュ。2日後の6月10日の5000mも優勝の新谷仁美(豊田自動織機)についていけず2位(15分25秒74)に敗れたが、翌6月11日の日本陸連理事会でロンドン五輪代表に選出される。なおオリンピックで日本女子の長距離走種目で3大会連続代表選出は、弘山晴美と並ぶ史上二人目の快挙達成となった。 同年8月5日に開催されたロンドン五輪10000m決勝の福士は、号砲から間もなくして日本女子3選手らと共に先頭に立つ積極性を見せたが、4000mを過ぎてから先頭集団の後方に後退。それでも終盤まで入賞圏内で粘っていたが、最後は力尽き31分10秒35の10位(日本女子トップは新谷の9位、吉川は16位)と、五輪で「3度目の正直」の8位内入賞はならなかった。2日後の8月7日は5000m予選1組に出場も、4000m付近までは先頭で集団を引っ張ったがまたも終盤失速、15分09秒81の予選8位に終わり決勝進出は果たせなかった。 同年11月4日のニューヨークシティマラソンにエントリーしていたが、開催前にハリケーン発生による被害の影響を受け、中止された。
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