3号ドックの建設
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「横須賀海軍施設ドック」の記事における「3号ドックの建設」の解説
1号ドックの完成後まもなく、明治4年(1871年)5月には第3号ドックの建設が開始された。なお1号ドックが完成し、3号ドックが着工された明治4年(1871年)、横須賀製鉄所は横須賀造船所と改称された。 ヴェルニーは当初の横須賀製鉄所建設計画で2基のドライドック建設を予定していたが、少なくとも3号ドック建設開始時までには3基のドックを建設する計画となったものと想定される。当時ドライドックを建設する場合、大中小の3基を建設するのが常識であった。それは19世紀後半に成立した海軍の艦隊編成に理由があった。当時の海軍は戦艦を中心とした編成となり、補助艦船として巡洋艦、そして奇襲攻撃の際などに活躍する駆逐艦などで編成されるようになってきた。従ってその艦隊編成に合わせて、ドックも船体の大きさに合わせて大中小の3基を建設することが効率的であった。当初横須賀製鉄所で2基のみのドライドック建設計画が立てられた最大の理由は資金難であったと考えられる。また1号の建設が終了した後に3号、そして3号の建設が終わってから2号と、ドックの建設が順番に行われ同時進行されなかった理由も、やはり幕末から明治初期にかけての深刻な財政難に加え、労働力不足の影響も大きかったものと推察されている。 3号ドックは1号ドックの西側に建設されたが、両ドックの間がかなり開いており、そこに2号ドックが建設されることになる。これは明らかに3つのドックを並べて建設し、しかも最大のドックとなる2号ドックを3基のドックの中央とする計画が存在したものといえる。それは1号ドックと2号ドックの間と、2号ドックと3号ドックの間にポンプ室を設置して、最大のドックである2号ドックの船舶入渠時には、両方のポンプを同時に使用して効率的な排水を行う仕組みとするためであった。このような点から、3号ドック建設開始時には3基のドックを並べて建設する計画があったものと推定される。現状でも2号ドックのポンプ室は、1号との兼用のポンプが1号ドックとの間に、3号との兼用ポンプが3号ドックとの間に2つ設けられている。 3号ドックの設計者は1号ドックと同じく、ヴェルニーとL.F.フロランと考えられている。なお施工指導はL.F.フロランの弟であるV.C.フロランが行った。V.C.フロランは第3号ドックでの施工指導が評価され、3号ドックの完成直後に工事が開始された、長崎市の工部省長崎造船所1号ドックの設計を行うことになった。なお3号ドックは明治7年(1874年)1月に完成している。 V.C.フロランが設計を担った長崎造船所第1号ドックが明治12年(1879年)に完成するまで、日本にドライドックは横須賀の1号、3号ドックしかなかった。そのため多くの明治政府の軍艦修復を請け負うこととなったが、商船の修理も行っていた。当時ドックの修理需要は極めて高く、半年待ちとなることもあった。1号、3号ドックの後に2号ドックを建造することは、計画されていたことと考えられるとはいえ、1号、3号ドックの需要の高さも2号ドックの建造開始の理由となった。 3号ドックの工事では、1号ドックと異なりセメント代が低額となっている。これは1号ドックでは主に輸入品のポルトランドセメントを使用したものが、3号ドックでは石灰などを用いてセメントも現地生産を行ったものと考えられる。ドックに用いられた石材については、1号ドックと同じく真鶴から熱海周辺で採石された安山岩質の新小松石を用いている。また1号ドックよりも小型の全長約90メートルの3号ドック建造では、工事中の締切堤が1号ドック建造の際より簡略なものであり、またドック底や側面の厚さが1号ドックよりも小さいと推定されるなど、小型のドックであったことによる違いが見られる。 3号ドックの特徴としては、まず1号ドックでは行われなかったドック底面の傾斜がつけられたことが挙げられる。しかし今度は傾斜が急すぎたようで、次に建造された2号ドックでは3号ドックの底面につけられた傾斜の約半分となった。 続いてドック入り口部分に扉船を繋ぐ戸当りが2か所設けられたことが挙げられる。これはドックに入渠する船舶の大きさによって扉船の位置を変え、排水量を少なくして作業の効率化を図ったものと考えられている。そして扉船を繋げる戸当りが2か所あるドライドックは、3号ドックの後、各地に建設されるようになる。 また3号ドックでは、ドックの奥の部分が半円形をしており、また斜路が設けられていることも特徴として挙げられる。当時のドライドックはドックの奥の部分は半円形ないし尖頭アーチ形となっていた。これは船体の形状に合わせることによって無駄な空間を出来る限り少なくし、艦船のドック入りの際に必要とされる排水量を減らすことと、もしドック奥を矩形とした場合、ドック奥の部分と側面との間に角が出来ることになるが、石造のドックの場合、角を構築することが技術的に難しかったため、角が生じない半円形ないし尖頭アーチ形を採用したと考えられている。後年、ドライドックがコンクリートで建造されるようになると、半円形や尖頭アーチ形はコストがかかるためドック奥は矩形を採用するようになった。 またドック奥に斜路が設けられた理由は、クレーンなどの重機が発達していなかった19世紀後半、船舶修理に必要な資材を、ドック奥に設けられた斜路を滑らせてドック底に降ろすためである。1号ドックも当初はドック奥は半円形をしており、斜路も設けられていたが、昭和10年(1935年)から昭和11年(1936年)にかけて延長された際、コンクリート製となった延長部分の奥は矩形となり、クレーンが発達した昭和時代には斜路の必要性も無かったために斜路も設けられなかった。3号ドックは明治7年(1874年)の完成以降、風化した石材のコンクリートによる補修が行われたのみで大きな改修は行われておらず、ドック完成時の形のまま現在も用いられており、建設当時の姿を残しているドライドックとしては日本最古のものであり大変貴重といえる。 ドック付帯設備としては、現在の3号ドックポンプ室は2号ドックと兼用であり、現在の2号、3号兼用のポンプ室は昭和16年(1941年)竣工のものとの記録が残っている。
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