2003年州知事選挙
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「アーニー・フレッチャー」の記事における「2003年州知事選挙」の解説
2002年、ケンタッキー州の共和党指導者であるミッチ・マコーネルから州知事選挙への出馬を勧められ、同年に検討委員会を結成した。2002年12月2日、フレッチャーはマコーネルの補佐官ハンター・ベイツと共に州知事選挙に出馬すると発表した。2003年初期、共和党員の大学生カーティス・シェインが、ベイツはケンタッキー州憲法に規定する副知事の居住規定に合致していないという根拠で、ベイツの立候補に異議を申し立てた。ケンタッキー州憲法では、知事と副知事は選挙の前に少なくとも6年間州の市民である必要があった。ベイツがワシントンD.C.の法律会社に勤務し、またマコーネルの参謀長として働く間、ベイツとその妻は1995年8月から2002年2月までバージニア州アレクサンドリアのアパートを借りていた。共和党知事候補スティーブ・ナンの副知事候補ボブ・ヘレリンガーも原告として訴訟に加わった。2003年3月、オールダム郡の判事が、ベイツはケンタッキー州に居住していなかったと裁定した。その根拠として、ベイツは1995年から2002年までバージニア州の運転免許証を所有し、バージニア州に所得税を払い、バージニア州にあるアパートで「通常」眠っていたという事実を挙げた。ベイツは、判事が候補者名簿に空白を宣言できるよう、その裁定に対して控訴しなかった。それによってフレッチャーは、ベイツが撤退した場合にはできなかったはずのオプションであるベイツの代わりの副知事候補を指名できることになった。 フレッチャーはケンタッキー州西地区の合衆国検事スティーブ・ペンスを副知事候補に選んだ。ヘレリンガーはその法廷訴訟を継続し、まずベイツの資格が無いことがフレッチャーとベイツの組み合わせ全体を無効にすること、さらにフレッチャーは資格の無い候補の代替を指名できないことを申し立てた。ケンタッキー州最高裁判所は2003年5月7日にその申し立てを却下したが、判事達の意見は一致しておらず、最終意見には「これは法の判断が難しい事例であり、ヘレリンガーは裁判所の時間と注意に値する法的問題を提示した」という留保が付いていた。州選挙委員会は全郡の事務官に、フレッチャーとベイツの組み合わせに投じられた不在者投票は全てフレッチャーとペンスの組み合わせの票としてカウントするよう指示を出した。 共和党予備選挙の結果は、フレッチャーが総投票数の53%を獲得し、続いてナン、さらにジェファーソン郡判事執行役レベッカ・ジャクソン、州上院議員バージル・ムーアの順だった。民主党予備選挙では、州検事総長ベン・チャンドラーが州下院議長ジョディ・リチャーズを破って公認となった。チャンドラーは元州知事A・B・"ハッピー"・チャンドラーの孫であり、選挙戦の最終盤に第3の候補者である実業家のブルース・ランスフォードが撤退してリチャーズの支持に回ったことで、苦労していた。民主党員の最終結果では、チャンドラーが3.7%だけ上回っただけであり、その選挙運動組織を再編成する必要性に迫られた。その結果、フレッチャーは有力候補として知事選挙本番に入った。 フレッチャーは共和党知事協会からの資金を受けたので、チャンドラーに対して資金力で2対1の長所があった。当時現職民主党知事ポール・パットンを陥れたセックスと利権が絡むスキャンダルが持ち上がり、次の州予算では7億1,000万ドルの歳入不足が予測され、ケンタッキー州の民主党候補者名簿に載る者は全て選挙戦に苦戦を強いられた。フレッチャーはこの問題に乗じ、州都フランクフォートの「混乱浄化」を約束し、投票では596,284 票対 487,159 票で勝利した。この年の選挙全体では憲法に規定する州の選出役人7人のうち4人を共和党が制した。トレイ・グレイソンが州務長官、リッチー・ファーマーが農政コミッショナーに選出された。フレッチャーは2003年12月8日にアメリカ合衆国下院議長を辞職し、翌日州知事に就任した。フレッチャーが当選したことで、共和党は1971年以来32年振りにケンタッキー州知事を出し、得票についてはケンタッキー州の州知事選挙で共和党が得た最大の票差となった。
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