別のスキャンダル、議会に対する影響力の喪失
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/01 22:44 UTC 版)
「ポール・パットン」の記事における「別のスキャンダル、議会に対する影響力の喪失」の解説
全国的な経済状況の後退のために、2003年にケンタッキー州は厳しい歳入不足に陥った。パットンは州税制の総点検を提案し、それによって税収が州の経済回復に調子を与えることになると言った。しかし、そのような改革は必ずしも税収増を意味せず、2003年州知事選挙が迫って来るなかで、二大政党の議員は増税しないという誓約に厳密に固執することになった。その結果、2003年州議会で、議員達はパットンからの提案を完全に無視した予算を策定した。その予算には10年前に成立した選挙資金改革法案の撤廃が盛り込まれた。パットンは「私は議会に影響を及ぼすためにいかなる能力も無くした」と敗北を認めた。 パットンは知事として最後の数ヶ月で、その庇護者権限を悪用して批判を浴びた。批評家は、能力主義制度に乗らない職にあったその家族や友人を能力主義の地位に指名したことで、新しい政権になったときにその地位に留まる可能性を増したとして、パットンを非難した。これらの告発は特にその年前半に、州議会が予算の均衡化のために能力主義制度に乗らない職800人を削減するようパットンに命令しただけに、影響が大きかった。「レキシントン・ヘラルド・リーダー」は、これら告発がコーナー事件の告発よりも重大だったと述べていた。パットンは、その友人が能力主義の地位に申請して確保することために適切な人事手続きに従っていたと主張した。 2003年6月、パットンは1995年の州知事選挙で選挙資金法に違反したことで起訴中の男性4人に恩赦を発行した。その起訴は当時候補者だったラリー・フォージによって告発されたことから始まったものであり、パットンがトラック運転手組合と州民主党の費用を調整することで選挙資金法の適用を回避したとするものだった。フランクリン郡大陪審は1998年に起訴したが、1999年に巡回裁判所判事が選挙資金法は曖昧に過ぎるという根拠でそれらを却下していた。翌年控訴裁判所がその判断を逆転させ、2003年にケンタッキー州最高裁判所が5対1の票決でその起訴を維持させた。アメリカ合衆国最高裁判所は2003年6月13日にこの控訴に対する審問を拒否した。その2日後、パットンは4人全てに恩赦を発行した。州検事総長ベン・チャンドラーはこの恩赦によって、パットンが1995年に「正直に公然と」勝利したか否かを判断する可能性を無くしたと嘆いた。
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