1995年の噴火
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/22 07:30 UTC 版)
1995年の噴火は、4月2日から3日にかけての晩に始まり、島は火山灰の噴煙に覆われた。建物が破壊されたため、居住者は村から避難した。 噴火は、溶岩の初の噴出のおよそ6日前に始まった小さな地震の後に起こったと、住民は証言している。これらの地震は4月2日を通して大きさと頻度が増加し、特に強い地震が、明らかな噴火が始まる4時間前の午後8時頃に報告されている。そして、ちょうど真夜中過ぎに中央火山の中腹に亀裂が生じた。目撃した1人の住民は「山がまるでナイフで切られたかのようだ」と語っている。激しい噴出で知られるストロンボリ式噴火が始まり、「火のカーテン」と呼ばれる溶岩噴出とその流れは、午前2時にはカルデラ内のポルテラ村からふもとへと通じる道路を寸断した。カルデラの内側に居住していた1300人は、夜のうちに安全な北の海岸の村へ避難した。幸い死者はいなかったが、およそ20人が治療を必要とする怪我を負った。 4月3日の日中、島は、高さ2.5から5キロメートルに達した火山灰の濃い雲におおわれた。規模は明らかに少なかったが、最初の流れは比較的流動性の高いパホイホイ溶岩であった。激しい噴火は、直径4メートルに至る火山弾を生み出し、火口から500メートルの距離にまで飛散した。4月4日、溶岩の噴出は高さ400メートルにおよび、灰の雲は2000メートルの高さにまで達した。発達するアア溶岩の流れが加わり、南西方向に開いた新しい溶岩滴丘ができた。4月5日、新たなアア溶岩の流動がカルデラ壁の西端に達し、およそ5棟の建物と主要貯水池が破壊された。これらの最初の数日間に、行政当局はおよそ3000人を避難させた。 噴火は、最初の数日の後より落ち着きを見せるようになり、そしておよそ100から120メートルの高さのハワイ式噴火による穏やかな溶岩噴出は、高さ140メートル以上の溶岩滴丘を造りだした。アア溶岩は、西のカルデラ壁の方向へ流れ、そして北に向きを変えた。これらの溶岩流の偶発的な流れは、火口からの圧力と太い流動によって作り上げられている。4月13日、停滞したアア溶岩に覆いかぶさるように二番目のアア溶岩が流れ出した。初期の流れの上にあったが、4月15日には溶岩は散開しもう一つの建物を破壊した。溶岩流のスラグは、4月15日に2キロメートル先のカルデラの南端から外に向かって落ちだし、17日には流れが北側のポルテラ村で最も近い家の420メートル内に達した。 4月18日、携帯型地震計は、溶岩噴出からストロンボリ式噴火への突発的な形態の変化を示した非常に強い火山性微動を記録し始めた。噴出は、大きいガス爆発で3から8秒おきに放出された。これに加えて、突発的な噴出は増加し、流路の上方の部分300メートルは主にパホイホイ溶岩であることが観測された。状況と経路の流量から噴出量は、1日あたり400から850万立方メートルと推定される。 4月18日の夜の間に、溶岩滴丘の部分的な崩壊らしき一連の大きな爆発が起こった。朝までには、活動はこれまでの溶岩噴出に戻り、地震の記録は非常に静かなものになった。溶岩流は厚くなり続け、中央の溝に沿ってスラグだまりとなった。
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