1995年のルカシェンコによる国民投票以降
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「ベラルーシの国旗」の記事における「1995年のルカシェンコによる国民投票以降」の解説
1993年にルカシェンコは国家のシンボルを決定する国民投票の実施を試みるが、議会の支持を得られなかった。1995年5月14日の国民投票の2か月前、ルカシェンコは2本の小さな緑の棒と1本の大きい赤い棒からなる国旗のデザインを提案した。この提案がどうなったのかは不明であるが、数日後に新しいデザインの国旗が提案され、投票の対象となる新しい国旗としてベラルーシ国民に提示された。 1995年5月14日にベラルーシの国家の象徴を決定する国民投票が開催された。投票率は64.7%で、3:1の比率(75.1%:24.9%)で過半数を超える賛成票を集めた新しい国旗が採用された。有権者は国旗・国章のほか、3つの事項への投票も行った。国民投票の手法と、投票で国家の象徴を問う合法性は反対派から強い批判を受けた。反対派は64.7%の投票者の75.1%が賛意を示した、つまり新しい国旗の採用を支持したのは全有権者の48.7%に過ぎないと主張したが、他の多くの国と同様にベラルーシの法律は国民投票が成立するには有権者の過半数の投票が必要と定めている。この結果は大統領のルカシェンコに望ましいものであり、彼はソビエト式の旗の復活が国民に若々しい感覚と楽しい思い出をもたらしたと宣言した。
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