1976年–1986年: ポップ・ミュージックへの進出
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「ドリー・パートン」の記事における「1976年–1986年: ポップ・ミュージックへの進出」の解説
1974年から1980年、彼女は常にカントリー・チャートのトップ10に入り、8曲が第1位を獲得した。1976年から1977年までパートンは自身のバラエティ番組『Dolly! 』を持っていた。この間、ローズ・マドックス、キティ・ウェルズ、オリビア・ニュートン=ジョン、エミルー・ハリス、リンダ・ロンシュタットなど多くの歌手が彼女の曲をカバーした。また彼女のきょうだいのランディとステラもレコード会社と契約した。 この期間、パートンはより流行りの音楽に近付け、カントリー音楽の垣根を越えて認知度を高めようと試み始めた。1976年、彼女はサンディ・ゲイリンと共に仕事をし始め、彼はその後の25年間マネージャーとして勤めた。1976年、ポーター・ワゴナーとの共同プロデュースのアルバム『All I Can Do 』が発売されるとパートンの製作活動はさらに活発になり、ポップ・ミュージックの主流にさらに近付いていった。彼女の完全なセルフ・プロデュース作品は1977年の『New Harvest – First Gathering 』で、ポップおよびR&Bのクラシック『My Girl 』、『Higher and Higher 』のカバーを含み、彼女のポップ・ミュージックの能力を最大限に発揮した作品となった。おおむね好評でありカントリー・アルバムではトップになったが、ポップ・アルバム・チャートではアルバムもシングル『Light of a Clear Blue Morning 』もヒットしなかった。 『New Harvest – First Gathering 』の残念な結果の後、パートンは著名なポップ・ミュージックのプロデューサーゲイリー・クラインに次のアルバムを依頼した。その結果、1977年の『Here You Come Again 』は彼女の最初のミリオン・ヒットとなり、カントリー・チャートのトップになると同時にポップ・アルバムのチャートでは20位となった。バリー・マンとシンシア・ワイルによるタイトル曲である『Here You Come Again 』はカントリーのシングル・チャートで第1位となり、パートンの最初のポップ・ミュージックのチャートのトップ10入り(第3位)した曲となった。アルバムからの2曲めの両A面シングル『Two Doors Down/It's All Wrong But It's All Right 』もまたカントリーのシングル・チャートで第1位となり、ポップ・ミュージックのチャートで20位に入った。1970年代終盤から1980年代初頭までのパートンのシングルの多くはポップ・ミュージックとカントリー双方に同時にチャート入りした。彼女のアルバムはこの間、明らかにポップのクロスオーバーの成功に発展した。 1978年、パートンはアルバム『Here You Come Again 』でグラミー賞の最優秀女性カントリー・ボーカル賞を受賞した。彼女は『Heartbreaker 』(1978年)、『Baby I'm Burning 』、『You're the Only One 』(共に1979年)と次々とヒットを飛ばし続け、ポップ・ミュージックのシングル・チャートで全てトップ40に入り、カントリーのシングル・チャートでは第1位を獲得した。1979年、『Sweet Summer Lovin' 』はカントリー・チャートでトップ10には入ったもののこの2年間で初めて第1位を獲得できなかった。この頃複数のテレビ番組に出演し、パートンの知名度は上がり続けた。最も顔が知れ渡るきっかけとなった1977年12月の率直なインタビュー番組『バーバラ・ウォルターズ・スペシャル』(『Here You Come Again 』の発売と同時期)である。続いて1978年、ABCの『シェール・スペシャル』に出演、キャロル・バーネットとの共演でCBSの自身の番組『Carol and Dolly in Nashville 』に出演した。 CBSのスペシャル番組『Fifty Years of Country Music 』でロイ・クラーク、グレン・キャンベルとの3人での司会の番組に出演した。1979年、パートンはワシントンD.C.のフォード劇場で収録されたNBCのスペシャル番組『The Seventies: An Explosion of Country Music』の司会も行なった。当時の大統領ジミー・カーターもこの番組の収録を観覧していた。 パートンの成功は1980年にも伸び続け、ドナ・サマーによって書かれた『Starting Over Again 』、『Old Flames Can't Hold a Candle to You 』、『9 to 5 (9時から5時まで)』の3曲のカントリー、ポップ双方でのナンバー・ワン・ヒットに恵まれた。1980年のワゴナーとの再結成アルバム『Porter & Dolly 』からのシングル『Making Plans 』がトップ10入りした。 『9 to 5 』をテーマ曲とする映画『9時から5時まで』(1980年)でパートンはジェーン・フォンダ、リリー・トムリンと共演し、このテーマ曲はカントリーのチャートで第1位を獲得しただけでなく、1981年2月にはポップ・チャートとアダルト・コンテンポラリー・チャートでも第1位を獲得し、トリプル・ナンバー・ワン・ヒットとなった。パートンはカントリーとポップ・ミュージックの双方同時に第1位を獲得した数少ない女性カントリー歌手の一人となった。またこの曲はアカデミー賞歌曲賞にノミネートされた。1981年から1985年の間、パートンのシングルはカントリーのトップ10に登場し続け、12曲のトップ10ヒット曲を生み出し、それらの半分は第1位を獲得した。パートンはポップ・ミュージックのチャートにも登場し続けた。映画『テキサス1の赤いバラ』(1982年)に使用された『オールウェイズ・ラヴ・ユー』を再録してその年のトップ50に入り、1983年、バリー・ギブのプロデュースでビージーズによって作曲されたケニー・ロジャースとのデュエット曲『Islands in the Stream 』は2週連続ナンバー・ワンとなった。 1969年に初版が第1位を獲得した『But You Know I Love You 』、1981年の『The House of the Rising Sun 』、1982年の『Single Women 』、『Heartbreak Express 』、『Hard Candy Christmas 』、1983年の『Potential New Boyfriend 』がチャートでヒットし、ミュージック・ビデオも製作されてダンス・チャートにもランクインした。1986年にテネシー州ピジョン・フォージにドリーウッドをオープンするなどエンターテイメント事業などの新しいビジネスを模索し続けた。 1980年代中期、彼女のレコード売り上げはまだ好調で『Save the Last Dance for Me 』、『Downtown 』、『Tennessee Homesick Blues 』(1984年)、『Real Love 』(ケニー・ロジャースとのデュエット)、『Don't Call It Love 』(共に1985年)、『Think About Love 』は全てカントリーのチャートでトップ10となった(『Tennessee Homesick Blues 』と『Think About Love 』は第1位を獲得した。『Real Love 』もまたカントリー・シングル・チャートで第1位を獲得し、ポップ・ミュージックとのクロスオーバー・ヒットとなった)。しかしながらRCAレコードはその年の契約が切れると更新せず、1987年、彼女はコロムビア・レコードと契約した。
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