1976年–1992年、2007年: ジェネシス
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「チェスター・トンプソン」の記事における「1976年–1992年、2007年: ジェネシス」の解説
サンタナのリハーサルからわずか2週間後、トンプソンはジェネシスのドラマーで歌手のフィル・コリンズに招かれ、当時のドラマーであったビル・ブルーフォードの発展的な離脱に伴い、ツアー・ドラマーとしてバンドに参加した。コリンズはアメリカ人のドラマーを選ぶことを望み、トンプソンがドラマーのラルフ・ハンフリーと一緒に演奏することを特徴とするザッパのライブ・アルバム『ロキシー・ライヴ / ロキシー&エルスウェア』(1974年)で、トンプソンが演奏するのを聴いていた。トンプソンはベーシストのアルフォンソ・ジョンソンからジェネシスの音楽について聞いていたので、1976年11月にバンドへの参加を決め、アルバム『静寂の嵐』(1976年)をサポートするツアーへの参加に同意した。「リハーサルの初日、みんながギアをセットアップしているときにジャミングを始めたんだ。ただただそれを目指していた」。トンプソンは「Afterglow」のドラムパートを見せられ、最初はその素直なビートを演奏するのに苦労した。 1976年から2007年まで、トンプソンはジェネシスのツアー・ドラマーとして演奏した。トンプソンは、ライブ・アルバム『眩惑のスーパー・ライヴ』(1977年)、『スリー・サイズ・ライヴ』(1982年)、『ザ・シングル・ヒッツ・コレクション:ライヴ前編』(1992年)、『もうひとつのジェネシス:ライヴ後編』(1993年)、『ライヴ・オーヴァー・ヨーロッパ 2007』(2007年)でフィーチャーされている。 1992年のツアーの後、トンプソンは家族とより多くの時間を過ごすためにツアー・ドラマーを辞任した。彼はジェネシスのベーシスト/ギタリストのマイク・ラザフォードと、彼らの最終スタジオ・アルバムである『コーリング・オール・ステーションズ』(1997年)でドラムを演奏する可能性について話した。コリンズがバンドを脱退したため、トンプソンは単なるサイドマンではなく、バンドのフルタイム・メンバーになりたいと思っていた。しかし、この時にジェネシスはトンプソンなしでアルバムとツアーを続けた。そのような経緯がありながらも、2007年に「turn it on again : the tour」と呼ばれるツアーのためにトンプソンは戻ってきた。ちなみにトンプソンは1999年のコリンズの結婚式で、即席のジャムを演奏している。
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