1976年、ナイトの『切り裂きジャック最終結論』
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「ウィリアム・ガル」の記事における「1976年、ナイトの『切り裂きジャック最終結論』」の解説
詳細は「切り裂きジャック最終結論(英語版)」を参照 『イースト・ロンドン・アドバタイザー』紙の記者スティーブン・ナイト(英語版)は、BBCのドラマが放映された後にジョセフ・シッカートにインタビューした。そして、このインタビューを元にした本『切り裂きジャック最終結論(英語版)』(Jack the Ripper: The Final Solution)を1976年に発表した。この本にインスピレーションを受けた、ホワイトチャペル殺人事件に関連する数多くのフィクション作品が作られている。 ナイトは独自に調査を行い、ジョン・ネットリーという名前の御者が実在したことを確認し、新たに、1888年10月にストランドで無名の子供が殺害されたこと、1892年にウェストミンスター橋で"Nickley"(ニックリー)という男が入水自殺を図ったことなどが判明した。また、内務省の文書も参照し、そこから多くの同時代の警察報告書が初めて公開された。 ナイトは、ガルが高位のフリーメイソンであったと主張しているが、これに対しては異論がある。ナイトは次のように書いている。 シッカートの話に登場するあまり知られていない人々の中に、メイソンがいたかどうかを調べることはできない。しかし、主な登場人物は確かにそうであった。ウォーレン、ガル、ソールズベリーは、いずれもメイソンの階級を上っていた。ソールズベリーは、父親が全英の副グランドマスターだったこともあり、1873年には彼の名を冠した新しいロッジが献堂されるほどの実力者だった。ソールズベリー・ロッジは、ロンドンのグレート・クイーン・ストリートにあるフリーメイソンズ・ホールというイギリスでも有数のメーソン会場で会合を開いた。 この主張に反論しているのが、イギリスのフリーメイソン連合グランドロッジの元司書(後にコミュニケーション・ディレクター)のジョン・ハミルである。ハミルは次のように書いている。 スティーブン・ナイトの論文は、主人公である首相のソールズベリー卿、チャールズ・ウォーレン卿、ジェームズ・アンダーソン卿、ウィリアム・ガル卿がいずれも高位のフリーメイソンであるという主張に基づいている。ナイトは1973年に自分の主張が誤りであることを知っていた。図書館にいたとき彼から電話がかかってきて、彼らがフリーメイソンのメンバーであることを確認したいと言ってきた。長い時間をかけて調べた結果、私はチャールズ・ウォーレン卿だけがフリーメイソンだったことを彼に伝えた。残念なことに、彼は、自分の説が台無しになってしまうため、この回答を無視することにした。
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