1940年以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/05 17:45 UTC 版)
「リンカーン・ハイウェイ」の記事における「1940年以降」の解説
フィッシャーは25周年の翌年1940年に死んだ。1929年の株式市場崩壊で、その財産の大半を失っていた。その後の時代にリンカーン・ハイウェイはその記憶が永続するものになっていた ニュージャージー州では、アメリカ国道1号線と同9号線の合流道路、および州道27号線の一部は、現在もリンカーン・ハイウェイと呼ばれている リンカーン・ハイウェイが通った都市の道路には「リンカーン・ウェイ」と呼ばれているものがある。例えば、インディアナ州ミシャワカ、オハイオ州マシロン、インディアナ州ヴァルパレーゾ、イリノイ州オーロラ、同州ディカルブ、アイオワ州エイムズ、ワイオミング州シャイアン、ネバダ州スパークス、カリフォルニア州オーバーン、同州ゴールトである。リンカーン大統領は有名であるので、全ての「リンカーン・ウェイ」がリンカーン・ハイウェイから採られた命名ではない。例えばサンフランシスコ市のゴールデン・ゲート・パーク南側のリンカーン・ウェイ、同市プレシディオのリンカーン・ブールバードが、リンカーン・ハイウェイの一部であったことは無い。 ペンシルベニア州トレボーズでは旧リンカーン・ハイウェイが裏道であり、昔のルートを使っている 沿線沿いにボーイスカウトが建てた道標3,000本のうち幾らかが残っている。カリフォルニア州ウェストサクラメントやデイビスでは、協会との協力で再建されたものがある ネブラスカ州オマハの近くでは、当初の煉瓦で舗装された部分を市政府が保存している アイオワ州タマでは、欄干に"LINCOLN HIGHWAY"の彫刻がある橋が、郡道E66号線の一部として使われている 多くの場所のレストラン、モーテル、ガソリンスタンドなどは、リンカーンに関連する名前を現在も使っている ワイオミング州ワムサッター近く、アメリカ国道30号線の大陸分水界と考えられた場所には、協会の初代会長ヘンリー・ジョイのために1938年に建てられた記念碑があり、「大西洋から太平洋まで連続し改良されたハイウェイという夢を実現させた人物」と書かれている。その記念碑から遠くない、州間高速道路80号線からは、リンカーン・ハイウェイの放棄された部分を見ることができ、舗装の割れ目から雑草が生えている。2001年、この記念碑は州間高速道路80号線沿い、シャイアンとララミーの間に移された。 ララミーの東、州間高速道路80号線出口323に近い休憩所に、この道路の最高地点シャーマン・サミットがある。そこには高さ13.5フィート (4.1 m) のリンカーンの胸像が、高さ35フィート (10.7 m) の花崗岩台座に載った記念碑がある。1959年にリンカーン・ハイウェイの最高地点を示すために制作され、当初はアメリカ国道30号線の約1マイル (1.6 km) 西、200フィート (60 m) 高い場所にあり、この峠を越えたリンカーン・ハイウェイに近いものだった。1969年に州間高速道路80号が開通し、現在の場所に移された。ワイオミング大学の芸術学部教授ロバート・ラッシンが、この厳めしく陰気な彫刻を制作した。メキシコシティの快適な気候の中で、30の部品に鋳造され、ワイオミング州で組み立てられた。台座は空洞であり内部に梯子と避雷針がある。 イリノイ州ウィル郡にはこのハイウェイに因む学校4校がある。ニューレノックスのリンカーン・ウェイ・セントラル高校、フランクフォートのリンカーン・ウェイ東高校、ニューレノックスのリンカーン・ウェイ西高校、フランクフォートのリンカーン・ウェイ北高校である。全てリンカーン・ウェイ・コミュニティ高校地区第210のメンバーである
※この「1940年以降」の解説は、「リンカーン・ハイウェイ」の解説の一部です。
「1940年以降」を含む「リンカーン・ハイウェイ」の記事については、「リンカーン・ハイウェイ」の概要を参照ください。
- 1940年以降のページへのリンク