1936年洪水
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1936年3月、この年の冬は積雪量が多かったために、早春には雪解けと激しい雨が重なり、コネチカット川が氾濫して堤を越え、多くの橋を破壊し、数百人の人々を孤立させたので船で救出する必要があった。バーモント州バーノンにあるダムの水位が19フィート (5.8 m) も超えた。州兵や地元ボランティアが砂嚢を積み上げてダムの発電所が崩壊するのを防いだが、氷塊が上流の壁を突き破った。 マサチューセッツ州ノーサンプトンでは洪水の間の略奪が問題となり、市長が浸水した地域を守るために市民にパトロールをさせることになった。この地域の避難民3,000人以上がアマースト大学やマサチューセッツ州立農業カレッジに収容された。 前例の無いくらい集積された氷塊が洪水によって生じた問題を複雑にし、水をいつもとは異なる水路に流したり、川を堰き止めたことで、さらに水位が上昇した。マサチューセッツ州ハードリーの詰まりが崩壊したとき、水位はホールヨークのダムに積まれた砂嚢までも越えた。サウスハードリー・フォールズの町が完全に破壊され、ホリヨークの町の南部は大きな被害を受け、500人が避難した。 スプリングフィールドでは、広さ5平方マイル (13 km²) の市街地、総延長18マイル (29 km) の通りが浸水し、2万人の住民が家を失った。町は停電し、夜間の略奪には警官が「見付け次第射殺する」という布告を出すことになった。800名の州兵が秩序維持のために動員された。建物の上階に囚われた人にはボート船団を使った救助活動が行われ、地元の友愛会宿舎、学校、教会、修道会が宿舎、医療および食糧配給に使われた。アメリカ赤十字や公共事業促進局、市民保全部隊を初めとする地元、州、連邦政府の機関が救援や人海戦術に貢献した。道路が浸水したために都市はしばらくの間孤立した。水が退くと後には汚泥が残り、所によって厚さ3フィート (90cm) にも達した。スプリングフィールドの再生工事には数週間を要した。 この洪水全体で171人が死亡し、被害総額は1936年の価値で5億ドルに上った。43万人以上の人々が家を失うか貧窮に喘いだ。この時期は世界恐慌のまさに高みに一致していた。 コネチカット州、マサチューセッツ州、バーモント州、およびニューハンプシャー州の州に跨る「コネチカット川洪水制御州間協定」が1953年に制定され、重大な洪水被害を防止することになった。
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