1915年 - 1916年
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「アウクスブルク (軽巡洋艦)」の記事における「1915年 - 1916年」の解説
1915年1月24-25日の夜、アウクスブルクはボーンホルム島沖でロシアの機雷原に侵入し、機雷に衝突した。乗組員は沈没を避けるため対処し、その後修理のために港に曳航された。アウクスブルクは4月には復帰し、リエパーヤに対する大規模な作戦に備えた。ドイツ軍は、ゴルリッツ=タルヌフ攻勢にてオーストリア・ドイツ軍の主戦場から気をそらすために、この港を占領することを計画していた。海軍からの支援要請を受けた海軍は、沿岸防衛艦ベオウルフ(SMS Beowulf)、装甲巡洋艦3隻、アウクスブルクを含む軽巡洋艦3隻、そして多数の魚雷艇と掃海艇からなる部隊を編成した。さらに、軽巡洋艦4隻、魚雷艇21隻からなる第4偵察隊が北海から派遣され、作戦を強化した。5月にはドイツ陸軍がリエパーヤを占領し、その後はドイツ海軍の前線基地となった。同月末、海軍はアウクスブルクとリューベック(SMS Lübeck)に機雷敷設作戦を割り当て、フィンランド湾の入り口付近に機雷敷設を計画した。しかし、巡洋艦テティス(SMS Thetis)が潜水艦による攻撃を受けたため、ドイツ海軍司令部は作戦を中止した。 6月1日、アウクスブルク、ローン、リューベック、および7隻の魚雷艇が、ボグスカール沖で機雷敷設に就いた巡洋艦アルバトロス(SMS Albatross)を護衛した。アウクスブルクは、この作戦の指揮官であるヨハネス・フォン・カープフ提督の旗艦を務めた。機雷の敷設を終えたカープフは、任務を完了して帰港することを本部に無線で連絡した。この通信をロシア軍が傍受し、ドイツ軍艦隊を迎撃することを計画し、ロシアの装甲巡洋艦4隻および装甲巡洋艦リューリクを配備し、待ち伏せしようとした。カープフはロシア軍と遭遇する直前に戦力を分散させ、アウクスブルク、アルバトロス、および3隻の魚雷艇はロゼヴィア岬に向かい、残りはリエパーヤに向かった。6月2日午前6時30分過ぎ、アウクスブルクがロシア軍を発見した。カープフは速度の遅いアルバトロスに中立国スウェーデンの海域に避難するよう命じ、アウクスブルクと魚雷艇は高速でロシア軍から逃れた。その後の交戦で、アルバトロスは大きな損傷を受け、スウェーデン海域で座礁した。その後、ロシア軍はドイツ軍の第2部隊との交戦に転じたが、アウクスブルクとアルバトロスとの交戦で弾薬が少なくなり、交戦を打ち切った。 6月28日夜、ロシアのカサーツカ級潜水艦オクン(Окунь)がアウクスブルクに2本の魚雷を発射したが、いずれも外れた。アウクスブルクは、1915年8月のリガ湾の戦い(英語版)に参加する部隊に配属された。8隻の弩級戦艦と3隻の巡洋艦を含む大洋艦隊の分隊は、リガ湾のロシア海軍部隊を排除するためにバルト海に入った。アウクスブルクは8月16日、戦艦ナッサウ(英語版)とポーゼンを中心とした第2次攻撃に参加した。8月19日の夜、アウクスブルクはロシアの砲艦2隻(シブッチとコレーエツ)と遭遇し、アウクスブルクとポーゼンはシブッチを撃沈したが、コレーエツはなんとか退避した。10月13日、未知の潜水艦がアウクスブルクに魚雷を発射したが、命中しなかった。1916年9月、アウクスブルクはイルベ海峡からリガ湾へ強行突破する作戦に参加した。戦艦スラヴァを中心としたロシアの激しい抵抗により、ドイツ軍は湾内から後退せざるを得なかった。
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