1887年州知事選挙
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「ウィリアム・O・ブラッドリー」の記事における「1887年州知事選挙」の解説
1887年5月11日にルイビルで開催された党指名大会で、ケンタッキー州共和党は知事候補にブラッドリーを指名した。民主党の対抗馬は元南軍の将軍だったサイモン・B・バックナーだった。ブラッドリーは指名受諾演説で、ケンタッキー州民が南北戦争が終わったことを認識し、元南軍の民主党員を公職に選ぶ慣習を断ち切るときだと訴えた。その綱領には教育に対する提案、高い保護関税の実行、州内資源の開発が含まれていた。ケンタッキー州はペンシルベニア州よりも石炭の埋蔵量が多いが、必要な石炭の半分をペンシルベニア州から購入していることを指摘した。似たような状況が木材にも言えた。また以前の民主党政権の間に過剰に出費していたことも批判した。ブラッドリーが挙げた無駄遣いの例の中には農業局の創設と新しい州立刑務所の建設があった。州内事情の管理を民主党が誤ったことで、州内では機会が無いために有能で若い州民を州から去らせ、他州で運を開こうとしていると嘆いた。 バックナーは選挙運動中に党の強さと個人的な人気に頼って、圧倒的に優れた演説者であるブラッドリーに対する利点とした。2人の間で開かれたグレイソンでの只1回の討論会では、ブラッドリーが民主党を、鉄道委員会のような「無用な役職」を創設していると攻撃した。共和党が高い保護関税を提案していることを弁護し、連邦政府が教育を援助することを提唱した。バックナーが壇上に上がると、バックナーの演説の1つが前知事のプロクター・ノットによって書かれたことを、ブラッドリーは以前の演説で告発していたのかを尋ねることで始めた。ブラッドリーはノットがその演説を書いていたと聞いたことを認め、以前に行った演説でその主張を繰り返したことも認めた。バックナーは、ブラッドリーがこの「不名誉な虚偽」告発を広めていると非難し、その後の合同討論会に参加する合意を取り消した。その後で保護関税と連邦政府による教育援助について取り留めもない攻撃を行った。 バックナーは明言した通り、合同討論会でブラッドりと再びまみえることはなかった。バックナーは討論会で再度ブラッドリーと会うことを恐れているという噂が広がり始め、ブラッドリーはこの噂を消すようなことは何もしなかった。民主党はこの選挙戦の間に完全に統一されておらず、ミルトン・J・ダーラムや州上院議員のアルバート・シートン・ベリーなど党の著名人が州内での党の記録を批判していた。民主党系新聞「ヘンダーソン・グリーナー」も、「我々は自らを恥じるべきだ」と言って批判していた。ブラッドリーは州全体で民主党役職者に繰り返される盲目的与信の問題を攻撃し、具体的に財務状態の検査を要求していた。選挙でブラッドリーは16,000票以上の差を付けられて落選したが、それまでの共和党知事候補と比べて最高の成績を残し、州内の黒人有権者から強い支持が得られた。州の財務状態に関する心配はもっともであると証明された。バックナーが1888年に財務官の記録の監査を命じると、財務官のジェイムズ・"オネスト・ディック"・テイトが、州の公金25万ドルを着服して逃亡した。テイトが見つかることは無かった。 1888年、ブラッドリーの名前がアメリカ合衆国上院議員の候補者として再び州議会で議論されたが、票決では31票対94票でジェイムズ・B・ベックに敗れた。同年後半、共和党全国大会では、副大統領指名争いで832票中の103票を得た。指名されたのはリーヴァイ・モートンだった。1889年、ベック上院議員のおせっかいな推薦に基づいて、ベンジャミン・ハリソン大統領はブラッドリーを韓国公使に指名したが、ブラッドリーはケンタッキー州に留まり、そこで将来の政治的な機会を追求したいと考え、指名を辞退した。1890年から1896年の間には3度共和党全国委員に選ばれた。1896年、ケンタッキー州代議員から大統領候補に選ばれた。
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