1887年の訪問とは? わかりやすく解説

1887年の訪問

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/22 15:11 UTC 版)

チャイコフスキーとベリャーエフ・サークル」の記事における「1887年の訪問」の解説

1887年11月チャイコフスキーロシア交響楽演奏会公演いくつか聴くのに間に合うようサンクトペテルブルク到着していた。演奏会中には冬の日の幻想』と題した彼の交響曲第1番最終稿全曲初演された回や、リムスキー=コルサコフ交響曲第3番改訂版初演された回などがあった。このサンクトペテルブルク行きの前から彼はリムスキー=コルサコフグラズノフリャードフ交流しながら多く時間を共にし、滞在中はこれらの人物たちを交えて長い時間を過ごていた。 これに先立つこと9年チャイコフスキーはフォン・メック宛の書簡の中で5人組冷酷に分析してみせていた。その当時彼の中で孤立感と専門性への不安が最も高まった時期だったのである。続く9年の間にムソルグスキーボロディンこの世去りバラキレフ音楽傍流へと消え去りキュイ批判的文書チャイコフスキーにとってさほど痛いものではなくなっていた。リムスキー=コルサコフただひと作曲家としての活動そのまま保ち続けていたが、リムスキー=コルサコフ側の音楽的価値観移り変わりに伴い彼とチャイコフスキーの間ではこの期間に多くのことが変化していた。チャイコフスキー変化していた。作曲家としての暮らし安定を増すと同時に個人的に以前ほどには孤独ではなくなり、チャイコフスキーグラズノフリャードフリムスキー=コルサコフとの関わりを楽しみ、彼らの音楽にも多くの愉しみを見出していたのであるチャイコフスキーリムスキー=コルサコフ交響曲グラズノフの『ギリシャ主題による序曲第2番』など、こうしたコンサート聴いた曲をいくつも称賛していた。彼はグラズノフリムスキー=コルサコフ対し、彼らの作品モスクワ演奏会確実に取り上げると約束していた。そうした取り決め計画として立ちあがってこず、チャイコフスキー急ぎ内密に約束守ろうとした。それは特に彼が「あらゆる尊敬を得るに値する中略傑出した人物」と評するリムスキー=コルサコフ対す約束においてであった1887年12月西ヨーロッパ客演指揮者として演奏旅行出かける前日チャイコフスキーサンクトペテルブルクで足を止めてグラズノフリャードフリムスキー=コルサコフに彼がパリ持ち込むことになるかもしれないロシア音楽詳細なプログラムについて相談持ちかけた。その演奏会実現しなかったが、これはロシア音楽普及させるという自らの責務としてベリャーエフ・サークル楽曲売り込もうというチャイコフスキーの心の広さを示す逸話である。

※この「1887年の訪問」の解説は、「チャイコフスキーとベリャーエフ・サークル」の解説の一部です。
「1887年の訪問」を含む「チャイコフスキーとベリャーエフ・サークル」の記事については、「チャイコフスキーとベリャーエフ・サークル」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「1887年の訪問」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「1887年の訪問」の関連用語

1887年の訪問のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



1887年の訪問のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのチャイコフスキーとベリャーエフ・サークル (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS