1887年の訪問
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「チャイコフスキーとベリャーエフ・サークル」の記事における「1887年の訪問」の解説
1887年11月、チャイコフスキーはロシア交響楽演奏会の公演のいくつかを聴くのに間に合うようサンクトペテルブルクに到着していた。演奏会の中には『冬の日の幻想』と題した彼の交響曲第1番の最終稿が全曲初演された回や、リムスキー=コルサコフの交響曲第3番の改訂版が初演された回などがあった。このサンクトペテルブルク行きの前から彼はリムスキー=コルサコフやグラズノフ、リャードフと交流しながら多くの時間を共にし、滞在中はこれらの人物たちを交えて長い時間を過ごていた。 これに先立つこと9年、チャイコフスキーはフォン・メック宛の書簡の中で5人組を冷酷に分析してみせていた。その当時は彼の中で孤立感と専門性への不安が最も高まった時期だったのである。続く9年の間にムソルグスキーとボロディンはこの世を去り、バラキレフの音楽は傍流へと消え去り、キュイの批判的文書はチャイコフスキーにとってさほど痛いものではなくなっていた。リムスキー=コルサコフがただひとり作曲家としての活動をそのまま保ち続けていたが、リムスキー=コルサコフ側の音楽的価値観の移り変わりに伴い彼とチャイコフスキーの間ではこの期間に多くのことが変化していた。チャイコフスキーも変化していた。作曲家としての暮らしは安定を増すと同時に個人的にも以前ほどには孤独ではなくなり、チャイコフスキーはグラズノフ、リャードフ、リムスキー=コルサコフとの関わりを楽しみ、彼らの音楽にも多くの愉しみを見出していたのである。 チャイコフスキーはリムスキー=コルサコフの交響曲やグラズノフの『ギリシャの主題による序曲第2番』など、こうしたコンサートで聴いた曲をいくつも称賛していた。彼はグラズノフとリムスキー=コルサコフに対し、彼らの作品をモスクワの演奏会で確実に取り上げると約束していた。そうした取り決めが計画として立ちあがってこず、チャイコフスキーは急ぎ内密に約束を守ろうとした。それは特に彼が「あらゆる尊敬を得るに値する(中略)傑出した人物」と評するリムスキー=コルサコフに対する約束においてであった。 1887年12月、西ヨーロッパへ客演指揮者としての演奏旅行に出かける前日、チャイコフスキーはサンクトペテルブルクで足を止めてグラズノフ、リャードフ、リムスキー=コルサコフに彼がパリに持ち込むことになるかもしれないロシア音楽の詳細なプログラムについて相談を持ちかけた。その演奏会は実現しなかったが、これはロシア音楽を普及させるという自らの責務としてベリャーエフ・サークルの楽曲を売り込もうというチャイコフスキーの心の広さを示す逸話である。
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