1329年、プファルツ選帝侯領に
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「ジンスハイム」の記事における「1329年、プファルツ選帝侯領に」の解説
1329年からジンスハイムはプファルツ選帝侯領となり、1362年以後は、そのオーバーアムト・モスバッハに組み込まれた。1410年にこの都市は、傍流のプファルツ=モスバッハ公オットー1世の所領となった。彼は1440年からは近隣の村に対しても統治権を要求し、1472年にこれを獲得した。1499年にモスバッハ系が断絶した後、ジンスハイムは本家の選帝侯フィリップの所領に戻された。周辺の村は、多くがクライヒガウ騎士カントンに所属する貴族家の統治下に入った。 1496年、ジンスハイムのベネディクト会修道院は、修道院長ミヒャエル・フォン・アンゲルロッホによって世俗の騎士修道院に転向した。1525年のドイツ農民戦争では、約120人の蜂起した農民がジンスハイムに押し寄せ、市門を開門させた後、エッピンゲンの元主任司祭アントン・アイゼンフートの指揮下、騎士修道院に突撃してこれを奪取した。農民たちの怒りの矛先は、修道院で暮らしていたエルゼンタールガウやクライヒガウの領主の息子たちに向けられた。後にはおびただしい破壊の跡が残された。この事件の後、クライヒガウの多くの貴族たちはルターの神学を支持した。ジンスハイムの騎士修道院は、1528年から1533年まで修復が行われた。 1557年、選帝侯オットー・ハインリヒはアウクスブルク信仰告白を公然と支持し、その後継者であるフリードリヒ3世はプファルツ選帝侯領全域で宗教改革を実践した。1565年、フリードリヒ3世は騎士修道院の内陣を開き、カトリックの備品を焼却した。その後、修道院執行部が宗教改革の受け容れを拒んだため、フリードリヒ3世は7月5日に修道院を廃止した。 1618年から1648年の三十年戦争の間に略奪軍に何度も襲われ、住民は貧困と困窮に支配された。周辺地域では、多くの犠牲者が出た戦いが行われた、1622年のミンゴルスハイムの戦いとヴィンプフェンの戦いである。皇帝側の将帥ティリー伯はジンスハイムを荒廃させていった。ティリー伯の後にはスウェーデン軍が、次いでクロアチア騎士軍、さらにはフランス軍と続いた。現在のライヘン区では、三十年戦争開始時の300人から、終了時には14人まで人口が減った。ジンスハイムでも被害の程度は同じようなものであった。ジンスハイム修道院を改めて創設しようという最後の試みも戦争の混乱の中で失敗に終わった。 1648年のヴェストファーレン条約以後もすっかり荒廃し、大部分の人がいなくなった都市に平和は訪れなかった。これに続くフランスとの戦争で、近隣のフィリップスブルクの要塞がフランスからの入り口にあたり、多くの軍勢の攻防の焦点となったため、ジンスハイムを通りこの要塞に至る街道が行軍にしばしば利用されたからである。1674年にはオランダ侵略戦争で2万人の兵士が戦ったジンスハイムの戦いが起こり、フランスの将軍テュレンヌ子爵がドイツの皇帝軍を手ひどく撃破し、この街を略奪した。1689年にはMélac将軍が率いたルイ14世の軍勢によってこの街は完全に焼き払われた。 1730年8月にプロイセンの王太子フリードリヒ(後のフリードリヒ2世)は、シュタインスフルトの小さな農家「レルヒェンネスト」で、父フリードリヒ・ヴィルヘルム1世やプロイセン宮廷からの逃亡を企てた。この逃亡は直ちに露見し、王太子はキュストリン要塞に拘留されてしまった。 18世紀中頃からジンスハイムは復興に向かい、緩やかに成長をしていった。ゲーテは1797年に『詩と事実』の中でこの都市を「明るい田舎町」と書いている。
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