1329年までの政治動向
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「ムハンマド4世 (ナスル朝)」の記事における「1329年までの政治動向」の解説
アルフォンソ11世は14歳の誕生日である1325年8月13日に成年に達したと宣言され、1319年に起こったベガ・デ・グラナダの戦い(英語版)でナスル朝が圧倒的な勝利を収め、カスティーリャの摂政たちが死亡して以来弱体化していた国家の指導力を回復させた。そしてムハンマド4世の大臣間の内戦にウスマーン側に付いて戦うことで干渉し、1327年には国境地帯の複数の城を占領した。一方でカスティーリャの隣国であるアラゴンのジャウマ2世(在位:1291年 - 1327年)は、1321年にイスマーイール1世と結んだ以前の条約の内容に基づいて1326年にムハンマド4世との間で平和条約を更新し、ナスル朝との平和的な関係を維持した。ジャウマ2世は1327年に死去し、王位はナスル朝に対してより好戦的な姿勢を示した息子のアルフォンス4世(在位:1327年 - 1336年)に引き継がれた。同じ頃にマリーン朝はジブラルタル海峡における海軍の活動を活発化させ、イベリア半島への侵攻を計画していたと伝えられており、新しいアラゴン王はマリーン朝とムハンマド4世の同盟の成立を警戒した。また、ムハンマド4世と結んだ父親の条約を更新したものの、同時に1328年にはアグレダ、1329年2月6日にはタラソナの条約に署名してアルフォンソ11世と同盟を結び、ナスル朝に対する共同での攻撃を目論んだ。さらにはカスティーリャ王の姉であるレオノールとの結婚も成立させた。最終的にアルフォンス4世は絶えることのないイスラーム教徒による攻撃を口実として1329年3月にアラゴンとナスル朝の間で結ばれていた条約を破棄し、代わりにナスル朝に対する戦争を宣言した。アラゴンとカスティーリャの同盟に対抗するナスル朝の軍隊には、1329年の時点で3,000人の北アフリカ出身者と1,000人のアンダルシア人で構成された4,000人の騎手が含まれていた。このうち1,000人の北アフリカ出身者と600人のアンダルシア人が首都を防衛するために配備された。 ナスル朝ではムハンマド4世が1329年5月17日(ヒジュラ暦729年ラジャブ月17日)に以前の自身の家庭教師であるアブー・ヌアイム・リドワーンをハージブ(侍従)に任命した。ハージブの官職がナスル朝の歴史に登場したのはこれが初めてであった。この官職は10世紀の後ウマイヤ朝のハージブをモデルにしていた。ハージブは一種の首相として行動し、ワズィールや他の大臣よりも高い地位にあり、スルターンの不在時には軍の指揮を執っていた。イスマーイール1世の治世中に出世を重ねたカスティーリャ系カタルーニャ人のイスラームへの改宗者であるリドワーンは、ムハンマド4世の死後もユースフ1世の治世とムハンマド5世の最初の治世(1354年 - 1359年)にかけて、ユースフ1世の時代の短い期間を除きハージブの地位を保持し続けた。
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