高田鉱山時代から共立鉱業株式会社経営時代
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「細倉鉱山」の記事における「高田鉱山時代から共立鉱業株式会社経営時代」の解説
1896年(明治29年)後半から細倉鉱山の経営が困難になり始め、1897年(明治30年)には急激な収益低下に見舞われることになった。これはまず鉛の市場価格が下落した上に、物価が高騰し、鉄道建設などによる東北地方一帯の建設ブームにより、鉱山労働者の確保が困難になったことにより労働者の賃金も上昇したため収益率が低下したことが原因であった。そんな状況に追い討ちをかけたのが1897年の金本位制復帰であった。金本位制復帰によって細倉鉱山の主要産物での一つであった銀価格が暴落した。そのような困難な状況の中、1897年7月から9月にかけての長雨と豪雨により細倉鉱山の坑道は水没し、坑道の構築に必要な材木もまた洪水によって流出した。経営に大きな打撃を蒙った細倉鉱山株式会社は、1898年12月、解散に追い込まれた。 1899年(明治32年)4月、細倉鉱山株式会社の大株主の一人であった高田慎蔵は鉱山事業一切を引き取り、その後昭和初年まで細倉鉱山は経営者の名を取った高田鉱山と呼ばれるようになった。高田鉱山の経営は当初比較的順調であったが、1901年(明治34年)に発生した鉛価格の暴落で大きな痛手を蒙り、1902年(明治35年)12月には休山のやむなきに至った。 休山に追い込まれた高田鉱山を救ったのは亜鉛の登場であった。これまで日本では亜鉛の需要が少なく、また精錬方法も未熟であったため、鉛の鉱石である方鉛鉱などとともに大量に採掘されていた亜鉛鉱石の閃亜鉛鉱は使用されることなく捨てられていた。それが1904年(明治37年)から1905年(明治38年)頃から亜鉛の需要が日本国内で高まり始めたため、高田鉱山で捨てられていた閃亜鉛鉱にも注目の目が集まることになった。1909年(明治42年)、高田鉱山は再開して産出した閃亜鉛鉱は輸出されるようになった。 亜鉛の採掘によって息を吹き返した高田鉱山であったが、1914年(大正3年)から始まった第一次世界大戦は亜鉛の需要を急増させ、高田鉱山にとって追い風となった。当時、弾丸の薬莢には純度の高い亜鉛が用いられることが多く、戦争の激化によって世界中で亜鉛の消費量が激増し、これまで日本はイギリスから亜鉛を輸入してきたが、戦争の激化に伴いイギリスは亜鉛の禁輸に踏み切ったため、どうしても日本は亜鉛生産に乗り出さねばならなくなった。1915年(大正4年)12月、高田鉱山の所長であった山本豊次は電気分解によって高品位の亜鉛精錬に成功し、翌1916年(大正5年)から本格的な電気亜鉛の生産を開始した。しかし電気亜鉛の精錬には大電力が必要で、当時の状況では利用可能な電力が不足していたために、近隣の水力発電所から電力の供給を受ける契約を結ぶなどして電気亜鉛の生産に努めた。 第一次世界大戦の終結後の厳しい不況と、戦争終結による亜鉛の需要低下、そして経営者の高田慎蔵が1918年(大正7年)に死去したことが重なり、高田鉱山の経営は困難になっていった。1923年(大正12年)には高田鉱山で大火災が発生して経営の悪化に拍車がかかり、1925年(大正14年)、ついに鉱山は日本興業銀行の抵当物件となってしまった。そして1928年、共立鉱業株式会社に高田鉱山の経営権が移り、同時に鉱山名も高田鉱山からもとの細倉鉱山へと戻された。 共立鉱業は探鉱に力を注ぎ、それから浮遊選鉱法の導入によって鉱石中からの亜鉛の回収率を上げるなどの鉱山設備の改善を行ったが、折からの昭和金融恐慌とそれに続く昭和恐慌のため鉛と亜鉛の市場は低迷し、経営困難が続いた。そのような中、共立鉱業から三菱鉱業へ細倉鉱山を売却する話が持ち上がり、1934年3月、細倉鉱山は三菱鉱業株式会社の傘下に入った。
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