風俗・文学上の簪
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/05 06:04 UTC 版)
平安時代の『源氏物語』には「かざし」「かんざし」と言う言葉が何度か登場するが、これは「挿頭」(儀式などの際に参加者が髪にかざす植物のこと)「髪ざし」(髪の様子)のこと、また髪飾りの「髪挿し」は髪上げの儀などで前額に挿す櫛を指しているので混同してはいけない。「簪」は冠の巾子(こじ)の根元から差し入れて冠を止めるもので当然男性用。 妻を謙遜して言う言葉「荊妻」は貧しくてかんざしが買えずイバラの枝で髪をまとめるようなみすぼらしい妻という意味。中国四大美女の一人、西施は元々は薪売りの娘で、木製のかんざしと粗末なスカートという姿で川で洗濯をしていた所を見出されたとされる。たとえ貧しくとも髪をまとめるかんざしは女性にとって最低限の必需品であった。 中国語本来の「簪」は杜甫の白頭掻けば更に短く、渾べて簪に勝えざらんと欲すの詩句に見られるように男性官人が冠を止めるために使ったもので、白居易の「長恨歌」のラストシーンで登場する楊貴妃の金の「かんざし」は「釵」である。叉と言う字を含むことから分かるように留め針は二本あり、霊となった楊貴妃は思い出の髪飾りを真っ二つにして、現世に残された皇帝に送り永遠の愛を誓う。 江戸時代の将軍や大名の寝所では女性は普通髪を下ろしている。別に古風に則っているわけではなくて暗殺防止のための方策であった。簪も立派な武器であり、当然身につけたまま寝所に入ることは許されない。 武器としての簪は、琉球古武術で使用されているジーファーと呼ばれる簪である。琉球では男も女も簪をしており、女性が唯一使うことのできる武器である。使い方としては、襲われた時にジーファーを相手に突き刺して、相手がひるんだ隙に逃げ出すというものがほとんどであるが、見えにくいので暗殺用としても使われた。本土でも、江戸時代の初期において上方では真鍮などで製作されていた簪が、江戸の武家階級ではより硬い金属にとって変わったのも、護身武器としての効果を狙ったためである。古川柳に曰く:「かんざしも逆手に持てばおそろしい」 江戸時代も後期になると、戦もなく太平の世が長く続いていた。自然と商業中心の世の中になり、商家の財力は大きく、庶民でも様々な娯楽品を手に入れるようになる。その結果櫛やかんざしを髪に飾る女性も増えていった。そのような一般人との違いを見せつけるためか、最高級の遊女である太夫クラスでは、櫛は3枚に簪、笄をあわせて20本もの鼈甲製の髪飾りをつけるにまでなった。絢爛豪華な髪飾りは「首から上の価値は家一軒」と言われ、ひいき客からの贈り物であった。鼈甲でも半透明の黄色で斑点のないものが最も高価で、その部分のものを特に白または白甲(しろこう)と呼ぶ。 ちなみに太夫用の揃いは、江戸の吉原風ならば櫛3枚、玉かんざしと松葉を各2本ずつ、笄(延べ棒)1本、吉丁を12本となる(これ以外に髷の後ろにつける組み紐の飾りなどがある)。京都の島原風なら櫛3枚、笄(延べ棒)1本、平打を6 - 12本、長い下がりのついたびらびら簪を2本、花簪1本、勝山(つまみ簪の大きいもの)などとなる(これ以外に髷の周りにつけるかの子などがある)。 余談だが、江戸の力士の中には話題性を狙って遊女のように二枚の櫛を身につけていた変り種もいたという。
※この「風俗・文学上の簪」の解説は、「簪」の解説の一部です。
「風俗・文学上の簪」を含む「簪」の記事については、「簪」の概要を参照ください。
- 風俗文学上の簪のページへのリンク