類似事件の先例について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 02:32 UTC 版)
先例として、赤穂事件以前に起こった江戸城内での刃傷沙汰には次のものがある。 寛永4年(1627年):小姓組猶村孫九郎が、西の丸で木造三郎左衛門、鈴木久右衛門に切りつけた事件。理由は口論によるもの。加害者猶村は殿中抜刀の罪により切腹改易、被害者鈴木はその時の傷がもとで死亡、改易。木造は回復したが、逃げたことを咎められ、改易。加害者は死罪改易、被害者は死亡改易の例。口論が原因であったことから、喧嘩両成敗にされたものと思われる。 寛永5年(1628年):目付豊島信満が、西の丸表御殿で縁談のもつれから老中井上正就に斬りつけ、正就と制止しようとした青木義精を殺害し、その場で自害した(豊島事件)。加害者は死亡改易、被害者は死亡の例。 寛文10年(1670年):殿中の右筆部屋で、右筆の水野伊兵衛と大橋長左右衛門が口論になり、水野伊兵衛が刀を抜いた。水野伊兵衛は殿中抜刀の罪で死罪となった。喧嘩相手の大橋長左右衛門は無罪。加害者は死罪、被害者は無罪の例。 貞享元年(1684年):若年寄稲葉正休(浅野長矩の又従兄)が、本丸で大老堀田正俊を殺害し、正休もその場で老中らによって殺害された事件。加害者は死亡改易、被害者は死亡の例。 後年の例としては以下のものがある。 享保10年7月28日 (旧暦)(1726年8月25日):江戸城本丸松の廊下で発生。水野忠恒(松本藩主7万石)が扇子を取りに部屋に戻ったところ、毛利師就(長府藩主5万7,000石)が拾ったが、そのとき毛利は「そこもとの扇子ここにござる」と薄く笑ったため、水野は侮辱されたと思い、毛利を討とうと斬りかかった。しかし、水野は周りにいた者に取り押さえられ、毛利師就は右手、左耳、のどなどに傷を負ったが、一命を取り留めた。師就は「殿中につき、吉良義央に倣い刀を抜かずに対応した」と証言している。このとき将軍徳川吉宗は、水野の行動を乱心によるものであると裁定し、秋元喬房に預かりとして改易に処しながらも切腹はさせず、また親族の水野忠穀に信濃国佐久郡7,000石を与えて水野家を再興させた。加害者は改易、被害者は無罪の例。毛利家は泉岳寺と絶縁した。 延享4年8月15日 (旧暦)(1747年9月19日):江戸城内の厠で発生。熊本藩主・細川宗孝が旗本板倉勝該に斬られて死亡した。宗孝には御目見を済ませた世子がおらず、このままでは細川家は無嗣断絶になりかねないところ、その場にたまたま居合わせた仙台藩主・伊達宗村が機転を利かせ、「宗孝殿にはまだ息がある。早く屋敷に運んで手当てせよ」と細川家の家臣に命じた。そこで、家臣たちは宗孝の遺体をまだ生きているものとして藩邸に運び込み、弟の重賢を末期養子に指名して幕府に届け出た後で、宗孝が介抱の甲斐無く死去したことにして事無きを得たと言われている。加害者は死罪改易、被害者は死亡の例。原因について、細川家では板倉は「乱心」のうえ「人違い」による殺人としているが、板倉家は「遺恨」で元々、宗孝を狙ったと主張している。 天明4年(1784年)3月24日:江戸城中の間で発生。若年寄田沼意知(相良藩田沼家世子)に新番士佐野政言が切りつけ、田沼は重傷を負い佐野は拘束。田沼は事件から8日後に事件での傷が悪化し死亡し、田沼家世子は意知の子田沼意明に変更。佐野は田沼の死後すぐに切腹となるも、佐野家自体は政言に子が無かったため断絶するも親族には咎めは無かった。加害者は死罪改易、被害者は死亡の例。
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