音楽外の影響
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ロマン派音楽の時代を通じて戦われた議論の一つは、音楽と音楽外の言葉や発想源との関係であった。19世紀以前にも標題音楽(ある視点や標題による音楽)はありふれたものだったが、音楽形式と音楽外の霊感をめぐる葛藤はロマン派音楽の時代を通じて重大な美学的命題となった。 論戦の発端は1830年代にエクトル・ベルリオーズの《幻想交響曲》までさかのぼる。この作品には詳細な標題が副えられており、評論家や有識者に解釈の場を与えた。攻撃者の筆頭でブリュッセル音楽院の院長フランソワ=ジョゼフ・フェティスは「この作品は音楽にあらず」と断じた。一方の擁護者の旗頭はローベルト・シューマンである。ただし「すぐれた音楽はおかしな題名によって損われる。すぐれた題名があってもおかしな音楽の手助けにはならない」とも論じ、彼は標題そのものには否定的であった。音楽外の霊感という発想を擁護する役目はフランツ・リストに委ねられた。 時間が経つにつれて両陣営から論争が仕掛けられ、上のような亀裂はいっそう明白になった。「絶対音楽」を信じる者は、音楽表現は形式の完成にかかっているとして古い音楽で敷衍された見取り図に従った。そのころ公式化されつつあったソナタ形式が最も有名な形式である。標題音楽の信奉者にとって、詩など音楽外のテクストの叙事的な表現それ自体が形式だった。だから音楽形式を物語に従わせることが必要なのだと生活を創作に捧げる芸術家は論じていた。持論を発想したり正当化したりする過程で、両派はベートーヴェンへと遡った。リヒャルト・ワーグナーとヨハネス・ブラームスのそれぞれの支持者の反目によってこの分裂は次のように見なされた。即ち、言葉などの音楽外に関連するものを持たない「絶対音楽」の最高峰がブラームスであり、詩的な「実体」こそが和声や旋律を充溢させた音楽を形作ると信じているのはワーグナーである、と。 この論争を引き起こし影響力を与えた要因は複雑である。ロマン主義の詩の意義の発生も確かにその一つだし、演奏会や家庭で歌えるような歌曲の需要の増加もまた然りである。もう一つの要因は演奏会そのものの変質であった。演奏会の曲目は雑多な楽曲からより特化された曲目へと絞り込まれ、大きな表現力と特定の目的をもった器楽曲が次第に要求されるようになった。 「音楽外の霊感」の実例には次のようなものがある。 シューマンの《交響曲第3番「ライン」》 リストの《ファウスト交響曲》と《ダンテ交響曲》および数々の交響詩 チャイコフスキーの《マンフレッド交響曲》 リヒャルト・シュトラウスの交響詩 マーラーのいくつかの交響曲 ブラームス陣営から出発したツェムリンスキーやシェーンベルクですらも後には交響詩を手懸けた。 リストなどのピアノのヴィルトゥオーソはオペラのアリアやシューベルトらの歌曲を編曲・改作して器楽曲へと仕立て直した。マーラーの交響曲では、自作歌曲と密接な関連を持つものも多く、しばしばオーケストラ伴奏歌曲やオラトリオ・カンタータと融合したような例も見られる。
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