非行の連続
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 07:44 UTC 版)
「藤沢市母娘ら5人殺害事件」の記事における「非行の連続」の解説
Fは1976年(昭和51年)3月に中学校を卒業後、学校から紹介を受け学校近くの工場に旋盤工として就職したが、わずか3か月未満で退職した。それ以降も短期間で職を転々とし、翌1977年(昭和52年)8月26日には厚木市内にてオートバイを盗んだとして補導され保護観察処分となった。一方で同月には交通事故で負傷して茅ヶ崎市内の外科病院に入院したが、その際に同じく入院していた中学生の少女と親しくなり、連絡先を教えている。 同年10月、F(当時17歳2か月)は平塚市内の事務所に侵入して現金2,000円を盗んだとして窃盗容疑で平塚警察署(神奈川県警察)に逮捕され、少年審判で家庭裁判所から「在宅試験観察」の処分を受けた。しかしFは処分決定から半月後、両親に無断で横浜市戸塚区内の新聞販売店にて住み込みで働き、1978年(昭和53年)6月には東京都品川区大崎で中学時代の先輩とともにひったくりをしたため、同月30日に警視庁三田警察署に逮捕され、中等少年院送致の処分を受けた。同年8月2日から新潟少年学院(新潟県長岡市)へ入所したが、同院に塀・柵がなかったため、同年12月27日には脱走を試みた。しかし失敗し、翌1979年(昭和54年)3月には自宅に近い小田原中等少年院(神奈川県小田原市)へ移送された。小田原少年院では同室の少年たちからいじめを受けていたが、脱走を企てたことを理由に教官から厳しく監視されていたこともあり、在院期間中(約半年)に目立った問題行動は起こさなかった。また、同院在院中には後に共犯者(および被害者)となった2人の少年 (X・Y) と知り合い、親しくなっている。しかし、2つの少年院在院中に家族はほとんどFの面会には訪れず、仮退院が近づいた際には両親がFの身元引受を拒否した。 Fは1979年10月5日に小田原少年院を仮退院すると川崎市内の施設に身を寄せたが、約10日で連絡なく施設を去り、同月16日には同市内の耐火施設会社に就職した。しかしその後も再び職を転々とし、以降は再び定職を得ずバイクを乗り回す生活を送っていたが、1980年(昭和55年)3月9日には父親から生活態度を注意されたことに逆上し、止めに入った妹を殴るなどしたが、息子からの家庭内暴力に辟易し続けていた父が身の危険を感じて平塚署に110番通報した。この時、父親が駆け付けた署員に対し、ごみ箱に捨ててあった女性用ハンドバッグを「息子がひったくりで持ち帰ったものだ」と提示したため、Fは窃盗容疑で平塚署に逮捕され、同年4月9日には久里浜特別少年院(神奈川県横須賀市 / 横須賀刑務所に隣接)へ送致されることが決まった。Fは同院在院時代、成績不良に加え、何度か教官に反抗的な態度を取ることがあったため、原則として退院措置が取られる20歳を過ぎても6か月間の収容継続措置となったが、退院前には「今度退院してから事件を起こせば刑務所に入る。前科が付いてしまうので、ここで本当に反省して悪いことを繰り返さないよう心掛けたい。退院後は新聞販売店に就職し、いつかは自分で新聞店を経営したい。」と感想文を書いていた。また、1980年春 - 1981年春にはXとともに久里浜少年院に在院していた。 1981年(昭和56年)5月8日に久里浜少年院を退院したFは両親から引き受けを拒否されたため、横浜市内の更生施設に身を寄せたが、このころには「どでかい完全犯罪をやってやる」という思いに凝り固まっていた。Fは施設を1日で逃げ出して平塚に帰ったが、再び家族から拒絶されたため、2か月早く久里浜少年院を退院していたXを頼り、彼の勤務していた鎌倉市内の空調設備会社に就職した。
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