電灯対ガス灯
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長崎電灯では1912年(明治45年)7月になり、氷見寛二が社長を辞任して古賀鉱業代表の古賀春一が新社長となった。その直後に十八銀行関係者、すなわち松田派は所有する長崎電灯の株式を大阪の川北栄夫(川北電気企業社創業者)に売却、長崎電灯から退いて十八銀行の経営に専念することとなった。これらの株式は川北から古賀春一に転売されたため、古賀とその関係者は発行済み株式の過半数を確保して経営権を掌握し、長年続いてきた社内の派閥対立を終結させた。 日露戦争後の供給実績について見ると、電灯数は1906年に1万灯を超え、5年後の1911年には1万6千灯(需要家数約2,700戸)に達している。しかしこの伸び率はほかの九州の主要電気事業者に比べると低迷しており、1909年に福岡市の博多電灯(後の九州電灯鉄道)に九州首位の座を明け渡し、1911年には北九州の九州電気軌道と熊本電気にも追い越されて九州で4番目の電灯数となっていた。しかし新たに社長となった古賀春一は積極経営の方針を打ち出し、1912年末の新発電所(稲佐発電所)完成を期に電灯料金を引き下げ、翌年さらに引き下げる(10燭灯の場合月額1円から80銭を経て60銭へ)など新規需要の積極的な開拓を図った。この結果、1913年(大正2年)には需要家数2万戸・電灯数5万灯を突破するという急増を示した。料金引き下げ以外にも、従来の炭素線電球に替えて消費電力の小さい金属線電球(発光部分=フィラメントにタングステンを用いる白熱電球)を導入する、昼間の配電を実施し動力用電力の供給を開始する、供給区域を市外にも拡張する、といった業務の刷新が行われている。供給急増により収入・利益も大幅増となり、日露戦争前の水準である配当率12パーセントに復帰し、長崎電灯は経営再建を了した。 一方山内善三郎の個人によって経営されていたガス事業は、元長崎市長の横山寅一郎らによって株式会社化と事業の拡大が計画され、1911年7月11日に新会社「九州瓦斯株式会社」が設立されて同社による経営に移った。資本金は25万円で、うち21万円で山内より事業を買収している。初代社長には横山が就任。資金の都合で福岡市の実業家太田清蔵に協力を依頼したことから太田も役員となり、翌年末には横山に代わって太田が社長となった。 九州瓦斯発足後の1911年9月よりガス料金の最大3割引き下げ、工事費の一部会社負担(従来はすべて需要者負担)などが実施され、ガス事業でも新規需要の獲得が目指された。1912年(大正元年)12月16日には長崎駅近くの八千代町にて建設が進んでいた新ガス工場が竣工。新工場の建設によって照明供給で競合する長崎電灯との競争が激しくなり、長崎電灯では対抗上料金を2割引き下げている。営業成績は1911年末時点で需要家数約1,100戸、供給口数4,600口(灯用4,300口)であったが、1年半後の1913年6月末には需要家数約2,200戸、供給口数9,200口(灯用7,200口)となった。 九州瓦斯は翌1913年に倍額増資を行い資本金を50万円とした。大正時代に入ってから数年間は電灯とガス灯が競合する時代が続いたが、取り扱いが簡単で安価な金属線電球が登場すると電灯が有利となり、ガス灯は徐々に廃れるようになる。このことから九州瓦斯では熱用での利用を勧誘するようになっていく。また工業用ガスの供給にも進出し、1913年7月に三菱造船所(長崎造船所)と供給契約を締結、大口需要を獲得した。
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