電灯市営化の実現
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「大阪市営電気供給事業」の記事における「電灯市営化の実現」の解説
買収期日の1922年1月、大阪市は早速大阪電灯に事業買収協議開始を通告し、買収協議が開始された。協議は1920年締結の新契約に基いて進められ、大阪電灯の事業のうち大阪市内・東成郡・西成郡のものだけを買収する「分別買収」の方針をとった。発電所については当該地域における事業に必要な発電設備として安治川西発電所(出力15,000kW)の買収を希望し、買収価格は約5481万円を提示した。一方大阪電灯は、大阪市が事業の買収を求める地域における需要は約34,500kWであるから、これに対応する安治川東西両発電所(出力計37,500kW)ないし春日出第一発電所(出力30,000kW)が買収されるべきだとし、買収価格は約8107万円(安治川発電所買収の場合)を要求した。対して市は、大阪電灯の要求を受け入れると発電所4か所すべてを買収した場合に比較して買収価格がほぼ同一になることから4発電所中最も安価な安治川西発電所の買収のみで構わないとして要求を拒否したため、交渉は難航した。 分別買収の方針では交渉が困難と見た大阪市は、1922年10月、新契約に基づく協議を打ち切り、1906年締結の旧契約に基づく全事業の買収を通告した。旧契約に基づき買収案を策定し、11月市参事会にて可決、買収価格を6630万円とした。こうした市の方針転換に対して大阪電灯は旧契約は新契約締結によってすでに無効になっていると主張し市の主張を容認せず、12月の株主総会では市の通告には応じないと決議した。大阪電灯の措置に対し市は翌1923年(大正12年)1月、民事訴訟を提案するに至った。 買収協議に並行して、大阪電灯の買収を求める市民運動が発生していた。まず、市長池上四郎の側につく与党「新澪会」によって1922年11月に「大阪電灯買収期成同盟会」が組織され、次いで野党側も「大電糾弾会」を結成。これに市民団体が関与して運動が展開された。 続く大阪市と大阪電灯の対立は、最終的に時の内務大臣床次竹二郎の介入を招き、大阪府知事井上孝哉が仲介に入った。府知事の斡旋により新契約により交渉し直すという方針で妥協が成立し、事業の一部買収にかかる買収価格の調整を進めた。買収価格は市は6300万円を提示、大阪電灯は当初7058万円を提示して後に7000万円、次いで6750万円へと譲歩したが、意見の一致をみなかった。これを受けて府知事は買収価格を6625万円の斡旋案を提示するが、大阪電灯が容認したものの、市はさらに200万円から300万円の減額を要求した。1923年3月、160万円減額して買収価格を6465万円とする斡旋案が提示されると大阪市もこれを容認し、買収案に関する合意が成立。そして同年6月、大阪市が8%利付公債6465万円により大阪電灯から事業の一部を買収する、という正式契約が成立するに至った。 なお大阪市の買収範囲から外れた大阪電灯の事業資産、安治川東発電所や春日出第一・第二発電所、堺市その他における配電設備などは、大同電力が3000万円にて買収することとなった。かくして事業を大阪市および大同電力に分割買収された大阪電灯は、1923年10月1日付で解散した。
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